ニュートンの運動方程式のこと

 速度や加速度を定義にしたがって計算するためには、位置を時間の関数として得ていなければならない。単純なやり方としては「物体の運動を動画に撮影し、コマ送りで位置の時間変化をプロットする」などが考えられる。しかしこのやり方には限界がある。というのも、連続的なグラフを得ることはできない。しかしながら古典的な力学においては、位置と時間は実数として扱われる。実数は連続的だ。

 関連して別の疑問がある。位置の時間変化は、実際問題として、連続的なものとして得ることが困難であるのに、速度や加速度を計算して構わないのか」というものだ。

 しかし運動方程式というものを「位置→速度→加速度→力」という方向、すなわち「力の定義式」と見なすのではなく、時間追跡、すなわち「力を与えることによって微分方程式を解き、位置の時間変化を得る」というものとして「力→加速度→速度→位置」という方向へ用いることによって、位置の関数が連続的なものとして得られる。

 というのも「ここにはたらいている力の種類は何か」という判断は、数式の外側で、人間が行うことだからだ。しかしながら「はたらいている力の関数形が正しいものか、確認するのには力の定義式である運動方程式で確認しなければならないのではないか」という疑問も浮かぶ。

 この疑問に対する応答としては「運動方程式を確認するのではなく、力の関数形を与え、微分方程式を解いて得られた位置の関数が、実験に合致しているかを確認する」というものを考える。もちろん、この確認方法は冒頭に述べた事情から、十分性の確認に留まる。検証というのは帰納的なもので,論証のように演繹的にはいかない。

 しかし理論の検証が十分性を確認するに留まるといっても、さまざまな物体、多くの現象について十分性が確認できたならば、けっこう理論が有効なんじゃないかという気もしてくる。残るのはガラスに満たした水が少し減ったことに満足をするかしないかの差かも知れない(半分の水の例はあるが少なすぎる)

 

 

 自分が考えたことは,せいぜいそんなところです。

「自然現象が数式で記述できるのはなぜか」? -3

 

 

 

 前の記事では、(そのようなカテゴライズを認めるとして)生物や化学の対象とする自然現象が明らかに「数学で記述できる」と言っていいものか分からないと考えた。あるいは生物や化学が自然現象を扱う主要な方法が数学であるとは言い難いと考えた。そこでとりあえず「物理学の対象とする自然現象は数学で記述できる」「物理学がその対象を記述する主な方法が数学である」ということにして、我々がこれから考察する対象を物理学に絞った。これによって「自然現象が数学で記述できる」という漠然とした表現が、少しだけ詳細なものとなった。しかしそれでもなお漠然さは残る。さらなる厳密化の作業は、これから行う。

 

  (ところで、)生物学や化学の対象やその記述方法として数学が主要なものとは思われないと書いたが、とはいえ、生物学や化学が数式を扱わないというわけではない。量子化学や生物物理学のように、数式を扱うことが主要な作業内容となる分野もある。

 では、生物学や化学にカテゴライズされるような、数式を主要に扱う分野は、物理学とは異なるのだろうか?どのような共通点や相違点があるのだろうか?

 

  生物を対象とする自然科学における数式の使用の単純な例として、細胞分裂における細胞の個数の時間変化を考えてみよう。数式が醜いので後からTeX形式で書き直す。

 考えるのはあくまで単純化された例だ。例えば初め1個だった細胞が、時間の経過にしたがって分裂・増加するとしよう。時刻0で1個だった細胞は、時間Tが立つと2個になっているものとする。時刻Tに2個だった細胞は、さらに時間Tが経過して時刻2Tになると4個になっているものとする。このように、時刻tにn個だった細胞が、時刻t+Tには2n個になっているとしたら、時刻tにおける細胞の個数NはtとTを用いてどのように表されるだろうか?ただし最初に書いた通り、初期条件として時刻0でN=0であるとする。

 これについて考えるにあたっては、N(t)とN(t+T)との関係を考えればよい。まずはtがTの整数k倍の時を考えると,N(kT)=2N((k-1)T)なので

N(kT) = 2^2 N((k-2)T) = 2^3 N((k-3)T) =・・・= 2^(k-1) N(T) = 2^k N(0).

いまはtがTの整数倍しか考えていないが,kT=t(実数)仮定すると,k=t/Tなので

N(t) = 2^(t/T) N(0).

となる。ちなみにいまN(0)=1だ。

 

 ではこのように得られた式は「自然現象が数学で記述できる」には該当しないだろうか。もしもこのような式を指して「自然現象が数学で記述できる」と表現するのであれば,該当するだろう。しかしこのような,現象の数式による表現は「なぜ自然現象が数学で記述できるのか?」というような疑問を生むものだろうか?

 現象を数式で表すことに関連する作業の中で「自然現象を数式で記述できるのはなぜか?」という疑問を生むのは,どのようなだろうか?

 

  細胞分裂の例で示したように、少なくとも定量的に記述できる現象というのは幅広くある。すなわち複数の物理量のあいだに成り立つ関係を(等号を用いて)表すことができる現象は、幅広い。しかし単に定量的というだけで、なぜ数式で〜」という疑問になるかは怪しい。それに一般的には「自然現象」とみなされなくとも、定量的に記述できる現象もある。社会経済的な活動についても定量的な記述を行う取り組みはある。

  「自然現象がなぜ数式で記述できるか」という疑問は、単なる「現象を定量的に表現する」という作業だけに起因するものではないのではないだろうか?

 

 我々は「自然現象を数式で記述する」という問いを「物理現象が数式で記述できるのはなぜか」に絞ったが,「現象を定量的に表現する」という作業だけに起因してこの問いが生じるのではないということから出発して,さらにこの問いの意味する範囲を絞りたい。

 

  

映画『ミュンヘン』

 スピルバーグの『ミュンヘン』(2005)を久しぶりに観た。セックスもあれば、吹き飛ぶ顔や頭もある。人が直視したくないようなものを見せる。映画館では簡単に目の前のものからは逃れられない。後半は特にメランコリックかも知れない。この映画の(世間的な)スピルバーグっぽさといえば,エンドロールで,音楽を担当しているのがジョン・ウィリアムズであるとわかることぐらいかもしれない。

 スピルバーグと言えば『ジョーズ』『インディ・ジョーンズ』『E.T.』『ジュラシック・パーク』と、「娯楽」「子供向け」というイメージが先行するかも知れないが、『ミュンヘン』だけでなく『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』のように、悲惨、凄惨な画面、物語も作っている。

 

 *

 

 一般的な娯楽作品の、大きな構成はこうだ。主人公には困難が与えられ、最後には救いや希望がある。そういう展開を楽しむ人は多く、スピルバーグは人を楽しませるのが得意だ。人を楽しませる方法をうまくコントロールできる。だからそのぶん、人に興奮も希望を与えない作品も作れる。

 娯楽作品の前半にある主人公の困難を、できるだけ悲惨で絶望的なものにし、あとはそれを延長して全編を覆えばいい。凄惨な場面もあるシンドラーやライアンにも、若干の希望や爽快感は残される。しかし『ミュンヘン』には、それすらもない。

 

 

 1つ彼らしさが見て取れることがあるとすれば,「家族」だ。スピルバーグは主人公にも,協力者にも,主人公のターゲットにも,家族を持たせ,描きこむ。特に情報提供者であるルイのファミリーは幸せそうな光を以って描かれる。もしかしたら幸福な家庭像は,少年期の彼が欲しくとも得られなかったものの再現なのかも知れない。

 

「自然現象が数学で記述できるのはなぜか」? ー2

 

 まず初めにやりたいのは,「自然現象が数学で記述できるのはなぜか」というタイムラインで流れてきた通りの文言を少し厳密にして,問いに答えやすくすることだと思う。というのもこの問いは「自然現象が数学で記述できる」という前提に立っているが,この表現は少し強すぎると思う。

 自然現象にも色々ある。例えば「物理学が扱う自然現象が数学で記述できる」という表現にはまだ同意しやすいが,生物物理学があるにしても「生物学が扱う現象が数学で記述できる」という表現には賛同しがたい。例えば細胞の構造について観察したり,アイデアを出したりするという作業についてこれが数学をしていると言えるだろうか?動物の種を分類するといった作業を行うとき,我々は数学をしていると言えるだろうか? 「生命現象も物質的過程であり,物質的過程は究極的には素粒子間の相互作用に帰着できるであろうから,生物学も数式によって記述できるはずだ」という還元主義の発想には納得できるが,そのプランは現時点では実現していないし,行動目標ではなく達成目標であるから,「生物学が扱う自然現象が数学で記述できる」は現時点で事実ではない。したがって還元主義の立場については今は考えない。

 そもそも,例えば細胞の構造についてその粒子的に分析し,数式を用いて時間追跡するという作業を仮に行ったとして,それがどれほど生命現象の理解に寄与するかはよく分からない。

 というわけで「あらゆる自然現象が数式で記述できる」とか「あらゆる自然現象が数学的手法で研究できる」というわけではないという立場を採用することにしたい。

 

 「自然科学」の主要な大カテゴリのうち,化学については生物学よりも「数学で記述できる」部分が多いと思われるのだが,ちょっと微妙。

 比較的答えやすい,考えやすいのは「物理学の扱う現象が数学で記述できるのはなぜか」だと思うので,さしあたりはこの疑問について考えるのが良いのではないだろうか。