INCEPTIONについて

 ノーランが作る物語の概観は次のようなものだ。「作中世界にはルール設定があり,主人公には動機や目的がある。だから登場人物は必ずこういう行動を取るだろう」と。これは「ある前提を認めるならば,必ずこの帰結も認めなければならない」という,主として数学に顕著な,演繹的な説得の手段を模範としており,ロンドン大学で心理学を専攻しアカデミズムに触れた,ノーランの経験が活用されているのかもしれないし,ノーランが元来こういう説得の手段に興味があるのかもしれないし,ハリウッドなどの脚本の教科書に書いてある教則*1に従ったのかもしれない。

 自分は次のように続けたい。「しかし人々が映画に求めるのは演繹的な説得だろうか?あるいは人々は,どういった事柄についてなら演繹的な説得を求めるのだろうか?もしくは,映画の何が人々の心を動かすのだろうか?映画という媒体は,どのような物語を描くことに適しているのだろうか?映画や絵画などの視覚的媒体,小説などの言語的媒体(やそもそも言語)は,しばしば虚構の物語を語るが,決してその物語が演繹的説得の形をとっていなくても,人々をなんらかの形で満足させる。では虚構を描く媒体はいかにして人々を満足させるのだろうか?」でもとりあえずはノーランについて書きたい。

 

 INCEPTIONというこの映画においてもそうだ。まず劇中の世界には人々が夢を共有する装置があり,夢の中で人々が必ず従うルールがある。主人公は2児の父だが妻殺しの容疑をかけられており国外逃亡中で,帰国して子供に会うためには権力者に持ちかけられた夢の中での仕事を達成せねばならない。だから主人公はチームを集め,目的を達成するために,夢の中のルールを利用する。目的を確実に達成するために必ずやらねばならないことは何か,を考えるのである。

 だからもしも仮に観客が,夢のルールをよく理解し,主人公の動機や欲求を理解したならば,INCEPTIONという映画は実に理解しやすい映画になっているはずである。というのも前提が共有されれば帰結は必然的なものだからである。

 しかし実際にはそうなっていない。INCEPTIONという映画は,自分にとって,理解や納得というものをもたらさないのである。それは何故なら,夢の世界のルールや,主人公の動機や目的を,映像を通して観客に理解させることに成功していないからだ。

 だが私は先ほどからINCEPTIONという映画のストーリーや設定についてさも理解したかのように書いているではないか。ならばこの映画は私に,物語を理解させることに成功しているのではないか?いやそれは違う。あくまで私は監督がやりたかったであろうことを推測しているだけで,監督のやりたかったことを監督が実現できているとは思っていない。私は「自分にとって既知のある(言語的な)枠組みをINCEPTIONという映画に当てはめてみればこの映画を理解したつもりになれるからおそらくノーランもまた自分と同じ枠組みを有しておりその枠組みによってこの映画を理解され得るものにせんと努力したのであろう」と推測しているだけで,この映画そのものが,私の理解した内容を教えてくれたわけではないし,この映画がその枠組みを教育してくれたわけでもない。

 この映画は夢のルールも,主人公の動機も,直に,観客に見せることに成功していないのではないかと思う。例えば確かにディカプリオは帰国して子供達に会いたいと熱弁するが,そもそもディカプリオがコティヤールと恋人同士である(あった)という「感じ」,ディカプリオがまさに父親であるという「感じ」,ディカプリオに子供達がいるという「感じ」,そしてディカプリオ子供達に会いたいという気持ちそのものも,観客に抱かせることに成功していない。だから彼が子供に会いたければ取るであろう行動のもっともらしさを,自分は感じることができない*2。確かに,ディカプリオ演じる主人公が本当に子供に会うために帰国を望んでいたならば,主人公はミッションの依頼を引き受けることが必然的に帰結されるだろう。しかし主人公が子供に会いたいのだということを観客に強く印象付けることができていないのだ。「主人公が子供に強く会いたがっている」ということを言葉で表現するのは簡単だ。しかしそれを映像を通じて,観客に強く印象付けることはとても難しい作業なのだ。

 クリストファー・ノーラン監督は弟のジョナサンと脚本を執筆することがしばしばあるが,脚本を議論しながら練るさい,言葉への依存が強いのだと想像する。そして言葉で言いあらわせることでも,映像によって,映画として伝えることに成功していない。言葉のまさに言わんとしていること「それ自体」を観客の内側に,イメージさせることに成功していない。主人公は「罪悪感」という言葉を口にしたりする。しかし主人公が抱くその罪悪感「それ自体」を観客に抱かせることに成功しない。

 

(以下書きかけ)

 夢のルールについてもそうである。INCEPTIONの中で夢について言及されたのは,例えば以下のようなことだ:

・人は気付いたら夢を見ているが,いつから夢が始まったのかはわからない

・人はしばしば落下するような感覚と共に目を覚ます

・長い夢を見ていても,現実世界での経過時間はそれほどでもない*3

 →したがって夢の中で夢を見ているあいだに経過する現実時間は,より少ないだろう

・夢の中では現実世界における物理法則を無視できる

・夢の中での登場人物は,夢を見ている人間の「潜在意識」(無意識)の「投影」である

 例)

 さらにINCEPTIONでは,1人の人間の夢を複数人で「共有」可能だ。そのため

 *

 例えば主人公の亡妻が,他者の夢の中で攻撃性を発揮したり,どうしてそれを防ぐことができなかったりするのか,などについて,以上のような説明からどう導くかが謎であり,観客はモヤモヤしたまま進むことになるのだ。

 

(以上書きかけ)

 

ノーランの特徴といえば,複数のストーリーが映画の中で同時に進行することだ。しかしそれは決して映画の構成として非常に珍しいことではない。そこでノーラン監督は『インセプション』や『ダンケルク』では一捻り入れる。まず同時に進行する物語の数を3つにする。2ではありふれているし,4では多いからだ。さらに『インセプション』『インターステラー』『ダンケルク』では,ストーリーの登場人物にとっての経過時間が,ストーリーによって異なる。例えばINCEPTIONでは夢の第1-3階層のそれぞれにおいて,経過時間は異なる。

 しかし映画というのはそもそも,実際に起こるとしたら長くかかるものを切り詰めて書くものであるから,仮にノーランの手法が映画の特徴を生かしたものであるとしても,それぞれ経過時間の異なるストーリーを同尺(?)に描くことによって不思議な効果があるわけではない。むしろその不思議な効果のなさこそが,媒体の描く「ハーフリアル」を人々が違和感なく受け入れることへの不思議さを抱かせる。

 

ノーランが得意なのはあくまで「リアルな映像」(それが実際に起こるとしたら人間の目にどう「見」えるか,嘘っぽく「見」えないためにはどうすればよいか)であって,映画ではないのではないか?

*1:以前書店で目にした脚本の教科書には,「人物設定をしたならば人物の取る行動は自ずと従う」という趣旨のことが書いてあった。

*2:自分はディカプリオというキャスティングもまた成功していないのではないかと思う。というのもあたかも「木村拓哉はどの映画に出ても木村拓哉にしか見えない」と言われるかのように,ディカプリオもまたどの映画に出てもディカプリオにしか見えないからだ。彼は,物語中の,背景を持った人物を浮かび上がらせることができないのではないか?彼の『レヴェナント』での演技に与えられたアカデミー主演男優賞は,演技の成功に対する賞ではなく,努力賞であると思う。

*3:胡蝶の夢」だ。

ニュートンの運動方程式のこと

 速度や加速度を定義にしたがって計算するためには、位置を時間の関数として得ていなければならない。単純なやり方としては「物体の運動を動画に撮影し、コマ送りで位置の時間変化をプロットする」などが考えられる。しかしこのやり方には限界がある。というのも、連続的なグラフを得ることはできない。しかしながら古典的な力学においては、位置と時間は実数として扱われる。実数は連続的だ。

 関連して別の疑問がある。位置の時間変化は、実際問題として、連続的なものとして得ることが困難であるのに、速度や加速度を計算して構わないのか」というものだ。

 しかし運動方程式というものを「位置→速度→加速度→力」という方向、すなわち「力の定義式」と見なすのではなく、時間追跡、すなわち「力を与えることによって微分方程式を解き、位置の時間変化を得る」というものとして「力→加速度→速度→位置」という方向へ用いることによって、位置の関数が連続的なものとして得られる。

 というのも「ここにはたらいている力の種類は何か」という判断は、数式の外側で、人間が行うことだからだ。しかしながら「はたらいている力の関数形が正しいものか、確認するのには力の定義式である運動方程式で確認しなければならないのではないか」という疑問も浮かぶ。

 この疑問に対する応答としては「運動方程式を確認するのではなく、力の関数形を与え、微分方程式を解いて得られた位置の関数が、実験に合致しているかを確認する」というものを考える。もちろん、この確認方法は冒頭に述べた事情から、十分性の確認に留まる。検証というのは帰納的なもので,論証のように演繹的にはいかない。

 しかし理論の検証が十分性を確認するに留まるといっても、さまざまな物体、多くの現象について十分性が確認できたならば、けっこう理論が有効なんじゃないかという気もしてくる。残るのはガラスに満たした水が少し減ったことに満足をするかしないかの差かも知れない(半分の水の例はあるが少なすぎる)

 

 

 自分が考えたことは,せいぜいそんなところです。

「自然現象が数式で記述できるのはなぜか」? -3

 

 

 

 前の記事では、(そのようなカテゴライズを認めるとして)生物や化学の対象とする自然現象が明らかに「数学で記述できる」と言っていいものか分からないと考えた。あるいは生物や化学が自然現象を扱う主要な方法が数学であるとは言い難いと考えた。そこでとりあえず「物理学の対象とする自然現象は数学で記述できる」「物理学がその対象を記述する主な方法が数学である」ということにして、我々がこれから考察する対象を物理学に絞った。これによって「自然現象が数学で記述できる」という漠然とした表現が、少しだけ詳細なものとなった。しかしそれでもなお漠然さは残る。さらなる厳密化の作業は、これから行う。

 

  (ところで、)生物学や化学の対象やその記述方法として数学が主要なものとは思われないと書いたが、とはいえ、生物学や化学が数式を扱わないというわけではない。量子化学や生物物理学のように、数式を扱うことが主要な作業内容となる分野もある。

 では、生物学や化学にカテゴライズされるような、数式を主要に扱う分野は、物理学とは異なるのだろうか?どのような共通点や相違点があるのだろうか?

 

  生物を対象とする自然科学における数式の使用の単純な例として、細胞分裂における細胞の個数の時間変化を考えてみよう。数式が醜いので後からTeX形式で書き直す。

 考えるのはあくまで単純化された例だ。例えば初め1個だった細胞が、時間の経過にしたがって分裂・増加するとしよう。時刻0で1個だった細胞は、時間Tが立つと2個になっているものとする。時刻Tに2個だった細胞は、さらに時間Tが経過して時刻2Tになると4個になっているものとする。このように、時刻tにn個だった細胞が、時刻t+Tには2n個になっているとしたら、時刻tにおける細胞の個数NはtとTを用いてどのように表されるだろうか?ただし最初に書いた通り、初期条件として時刻0でN=0であるとする。

 これについて考えるにあたっては、N(t)とN(t+T)との関係を考えればよい。まずはtがTの整数k倍の時を考えると,N(kT)=2N((k-1)T)なので

N(kT) = 2^2 N((k-2)T) = 2^3 N((k-3)T) =・・・= 2^(k-1) N(T) = 2^k N(0).

いまはtがTの整数倍しか考えていないが,kT=t(実数)仮定すると,k=t/Tなので

N(t) = 2^(t/T) N(0).

となる。ちなみにいまN(0)=1だ。

 

 ではこのように得られた式は「自然現象が数学で記述できる」には該当しないだろうか。もしもこのような式を指して「自然現象が数学で記述できる」と表現するのであれば,該当するだろう。しかしこのような,現象の数式による表現は「なぜ自然現象が数学で記述できるのか?」というような疑問を生むものだろうか?

 現象を数式で表すことに関連する作業の中で「自然現象を数式で記述できるのはなぜか?」という疑問を生むのは,どのようなだろうか?

 

  細胞分裂の例で示したように、少なくとも定量的に記述できる現象というのは幅広くある。すなわち複数の物理量のあいだに成り立つ関係を(等号を用いて)表すことができる現象は、幅広い。しかし単に定量的というだけで、なぜ数式で〜」という疑問になるかは怪しい。それに一般的には「自然現象」とみなされなくとも、定量的に記述できる現象もある。社会経済的な活動についても定量的な記述を行う取り組みはある。

  「自然現象がなぜ数式で記述できるか」という疑問は、単なる「現象を定量的に表現する」という作業だけに起因するものではないのではないだろうか?

 

 我々は「自然現象を数式で記述する」という問いを「物理現象が数式で記述できるのはなぜか」に絞ったが,「現象を定量的に表現する」という作業だけに起因してこの問いが生じるのではないということから出発して,さらにこの問いの意味する範囲を絞りたい。

 

  

映画『ミュンヘン』

 スピルバーグの『ミュンヘン』(2005)を久しぶりに観た。セックスもあれば、吹き飛ぶ顔や頭もある。人が直視したくないようなものを見せる。映画館では簡単に目の前のものからは逃れられない。後半は特にメランコリックかも知れない。この映画の(世間的な)スピルバーグっぽさといえば,エンドロールで,音楽を担当しているのがジョン・ウィリアムズであるとわかることぐらいかもしれない。

 スピルバーグと言えば『ジョーズ』『インディ・ジョーンズ』『E.T.』『ジュラシック・パーク』と、「娯楽」「子供向け」というイメージが先行するかも知れないが、『ミュンヘン』だけでなく『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』のように、悲惨、凄惨な画面、物語も作っている。

 

 *

 

 一般的な娯楽作品の、大きな構成はこうだ。主人公には困難が与えられ、最後には救いや希望がある。そういう展開を楽しむ人は多く、スピルバーグは人を楽しませるのが得意だ。人を楽しませる方法をうまくコントロールできる。だからそのぶん、人に興奮も希望を与えない作品も作れる。

 娯楽作品の前半にある主人公の困難を、できるだけ悲惨で絶望的なものにし、あとはそれを延長して全編を覆えばいい。凄惨な場面もあるシンドラーやライアンにも、若干の希望や爽快感は残される。しかし『ミュンヘン』には、それすらもない。

 

 

 1つ彼らしさが見て取れることがあるとすれば,「家族」だ。スピルバーグは主人公にも,協力者にも,主人公のターゲットにも,家族を持たせ,描きこむ。特に情報提供者であるルイのファミリーは幸せそうな光を以って描かれる。もしかしたら幸福な家庭像は,少年期の彼が欲しくとも得られなかったものの再現なのかも知れない。