「北斎とジャポニスム」展

北斎ジャポニスム HOKUSAIが日本に与えた衝撃

国立西洋美術館(上野公園内) 

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2017年10/21(土)~1/28(日) 

09:30-17:30(最終入場17:00)

ただし月曜日、年末年始などは休館 ※詳細はHPをご参照ください

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『ノクターナル・アニマルズ』

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富豪の娘のスーザンは、作家志望の貧乏なエドゥアルドと付き合っていた。母親には「いずれリッチな暮らしが恋しくなるから長続きしない」と反対されるも「私は母さんとは違う」と押し切り、結婚。しかし結局、ロマンチックなだけでは生きていけないと気づいたスーザン、「あなたは弱い」とエドゥアルドを捨て、リッチで精力的な男ハットンに乗り換える。「やっぱり母親似だ」とエドゥアルド。スーザンはさらにエドゥアルドとの間にできた子供を堕胎。エドゥアルド、ショック。

 

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慣性系からの推論

ニュートン力学における「慣性系」について、自分なりの解釈に基づく連続的な推論

(ただしGalilei変換の数学的導出は(調べれば見つかるので)省略した)

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『ダンケルク』評

※12/1更新①

※12/2更新②

※12/4更新③

※12/5追記④

※12/10更新⑤

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クリストファー・ノーランという監督は、あくまでミステリをしたいのだ。『ダンケルク』は劇中で並進する「陸」「海」「空」という3パートをそれぞれ主観的視点から描く。我々観客は目撃者の証言を集める探偵なのであり、ノーランが我々に命ずるのは、主観的な目撃証言をつなぎ合わせ、辻褄があう(sense makingな)1つの俯瞰的な(映)像を構成することだ。だから我々が『ダンケルク』を理解したということはつまり「いつどこに誰がいて、誰に対して何をしたか」を説明することである。出来事の因果関係を説明することである。あるいは登場人物の移動経路を連続的な道のりとして地図上に描き、彼らの道のりの交わり交わりにおいて、相互作用があったことを説明することである。

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芥川龍之介の『藪の中』を思い出すが、幸いなことに『ダンケルク』では目撃証言どうしが矛盾を生じることはない。

このように俯瞰的でない、主観的で、視界の限定された物語は、登場人物が密室からの脱出を迫られているかのように演出する効果もある。つまり緊迫感・緊張感を高める。陸は敵に囲まれ、海で身動きが取れるのは船の上だけ、空でもコクピットの空間だけ。魚雷、船への狙撃、海上火災、どこにいるかわからない敵。人々の行動範囲は限定され、身動きが取れずに縮こまる。

俯瞰できない。景色がわからない。息苦しい。知りたいのに分からない。快感がない。だから観客はつまらないかもしれない。しかしこの"つまらなさ"こそ監督が観客にもたらそうと狙ったものである。だからこの作品の娯楽性つまり快感や刺激の少なさゆえにこの作品を批判する人々の出現も監督の想定内なのかもしれない。

また、この”つまらなさ”を以って作品の評価の全てとしてしまうか、それとも意図的に演出されたつまらなさであるとして作品の評価に含めるかどうかに、『ダンケルク』に限らず、映画というものをどのように楽しむか、人による違いが現れるのではないだろうか。

ところで登場人物の、そして観客の視界(=情報)を限定することで閉塞感を表現するこの手法。自分が思い出すのは『サウルの息子』の特に冒頭シーンである。

 *

ダンケルク』という映画のストーリーをそのまま言語化すると、文章としてわかりにくい。わかりにくいというか、要約する余地がたっぷりあると思う。はじめから要約した文章を映像化するのではなく、要約しないままで踏みとどまる。要約された文章とはつまり俯瞰的な視点からの映像である。

ダンケルク』の感想をTwitterであれこれサーチして気付かされたのは「人々を実際に救った空軍の英雄が、ドイツ軍の捕虜となる」という境遇と、「実際には船に同行しただけで何もせずに死んだ少年が新聞で祭り上げられる」という境遇の違いである。少年の死は半ば感動的に演出されるため誘導される人もいるかもしれない。けれどもこの誘導に乗せられる人は、新聞の伝える情報に踊らされる人と同じであるということなのだろうか。

対して、英雄の虜囚に憤る人もいるかもしれない。普通の映画なら、捕虜となった英雄を救出せねばならない。けれど『ダンケルク』には「困難とその克服」というカタルシスが抑えられている。ここに不完全燃焼感がある。「生還」という目標とその達成があるけれども、普通の映画からするとかなりハードルを下げたものである。

この映画は空軍が捕虜となるところで物語をぶった切る。兵士たちは故郷に戻ってくる。そして「これからが戦いの始まりだ」というところで映画は終わる。

この「戦い」というのは、直接的には、劇中でこの後続くであろう大戦において、イギリスがドイツに対して徹底抗戦を続けることだ。けれどももしかしたら観客に対して、以上のような考察を促すものかもしれない。つまり「行動に応じて、然るべき処遇を与えよ」というような。

もしもノーランが、何もしていない少年が新聞によって祭り上げられる状況に批判的な感情も持ちながらも、少年の死を崇高なものとして演出しようとしていたのなら、かなりの道化、天邪鬼である。けれどもこのような”嘘"が有効であることを彼は知っている。国民や兵士の戦意を高揚させ、観客にカタルシスをもたらすことを。そしてこういう有効な”嘘"、方便は、『ダークナイト』のオチでもあり、『インターステラー』のラザロ計画の真相でもある。この方便の有効性について、ノーランは『インターステラー』のなかで、ロボットのTARSに宣言させている。「完全な正直さは感情を持つ相手を傷つけることがある」と。

ただし過去『ダークナイト』でも『インターステラー』でも、有効な”嘘"に反感を示す人々の存在があった。ゆえに観客もその悪い側面に目がいく。ところが今回『ダンケルク』では、登場人物が反感を示すシーンはない。それでもなお、”嘘"に目を向け、反感を持つ観客がいるかどうか試したのだろうか?つまり観客は被験者だったのではないか?

そういえば、少年ともみ合って怪我をさせ死に至らしめる原因を作った兵士に対し、船長の息子が少年の死を隠すシーンがある。これもまた方便である。この方便を許すかどうかは観客の意見が割れそうであり、やはり有効な”嘘"と真実というのもまたノーランにとって1つのテーマであるようだ。ミステリ作家として「本当は何が起こったか?」にこだわり、SF作家としては「何が実際に起こり得るか?」にこだわるノーランだが、つねに真実がよいものとは言い切れないのだと知っている。彼が「有効な嘘と真実」という人間・関係・社会・政治上のジレンマを作中に登場させることによって、真実というものについての自らの中立的な立場を示しているのだ。

 

ちなみに物語に登場する船長は息子を戦争で失っている。したがって船長の息子もまた、兄を戦争で失っている。だから死を伝えるということによる影響を予測できる。だから兵士に対して、少年の死を伝えることの悪影響を想定したうえで、方便の使用を許したのかもしれない(あの視線のやり取りは、これまでのノーラン作品では目立たなかった、演技による演出だった)

しかし『ダンケルク』は、もっと素直な映画ではなかったか。つまり「単に生き抜くだけで、勝利なのだ」というような。ただ囲まれ、追い込まれ、逃げ惑い、狙われるのみで、反撃せず、一矢報いることもできない1兵士が生きて故郷へ帰る。たったそれだけでも、じゅうぶんなのだと。それに元来ノーランは、「往年のブロックバスター映画を復活させたい」だとか「007を撮りたい」だとか言ってきたではないか。『ダークナイト』トリロジーも、リアリティを徹底しながらもバットマンの尊厳を損なうことはなかった。前作『インターステラー』ではより明確に「親子愛」というシンプルでクサいものをテーマに据えたではないか。そんな案外素直なノーランが、少年の死を崇高なものとして演出したということは、それをそのままの意味に受け取ることはできないか?

だとしたら「方便と真実」が当てはまると確実に言えそうなのは、少年の死を兵士に隠すあの1点のみである。

 *

ところで、以上のように考えることで「有効な嘘と真実」という共通点において『ダークナイト』が同時期の『ウォッチメン』と比較されることが理解できる。

※12/5追記④

自分では気づけなかったのだが、ノーランが「方便」の話題を出すのは自己弁明なのではないかという考察を見つけた。

rts3.exblog.jp

つまり「映画というのは娯楽的側面があるので、観客を満足させるために嘘をつく(実際にはあり得ないこと、実際には起こらなかったことを映像にする)」のだと。

あまりに自明なので言及されにくいことであるが、主人公ら登場人物というのは架空であり、架空の人物の体験する物語というのも架空の物語であるけれども、『ダンケルク』においても史実とは異なる描写や「普通起こらない」描写が含まれる。

ノーランというのはCGを排した撮影や、人物の心理の行動への反映などの"リアル"を追求するがゆえに、映画の娯楽的側面が要請する「嘘」を含めるとき、さりげなく自己弁明をしなければ気が済まないのだ。『ダンケルク』は史実に基づくゆえになおさらである(それならば、例えば『インターステラー』における映画の娯楽的側面が要請する嘘とは何か?)

このような自己弁明であるとか自分の立場の主張は、映画の外で行うこともできるけれども、ノーランはストーリーに織り込む。『ダンケルク』だけではない。『プレステージ』でも、手品とミステリとの類似性に注目し、手品を題材にすることで自らの映画作りの立場表明を行っていたではないか(自分で気づけなかったことに悔しさ)。

 

 *

第2次大戦が連合国側の勝利に終わったことを、現代の我々は知っている。ダンケルクの撤退戦が成功したことも我々は知っている。つまり我々はこの物語のオチを予想できる。けれども劇中の人物にとってはそうではない。彼ら自身の視点から見えるものは、いくらでも後知恵で判断できる、岡目八目の我々とは違う。彼らの主観にとって、彼らの物語のオチはまだ分からない。

さて、ノーランはミステリ作家ではなかったか。ヒントを提示し、あれこれ観客に推論をさせながら、予想のつかないオチ、トリックを披露する。これこそ手品である。けれども史実というのは、人々がすでにオチを知っている物語である。ミステリ作家であるノーランにとって、ここに挑戦のしがいがあったのではないだろうか。

(では具体的に、予想のつかない展開がどのように演出されたか?)