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WORDS

-それ以外に抽象しようのない-

僕の日記は続かない

文筆

僕の日記は続かない

 

日記。毎日書く日記。

このブログを日記の代わりに使おうとしたことがあったけれど,長続きしなかった。

無地のノート*1も持っていて,毎日起こったことを記録する試みをしたことも数回あった。けれどたいてい「2日間分をまとめて書く」とか「3日間分をまとめて書く」とか溜め込んでしまう。そして4日間分以上貯まると面倒になってやめてしまう。

もう1回初めてみようか?けれど(手が疲れるだろうなあ)(夜に帰宅したらそれ以上活動せずゆっくりしたいなあ)などと考えると,やる気にならない。

*1:現在このノートは,過去のことを記録するものではなく,将来起こり得るものに備えたり,現在生じている問題について考察したりするためのものとなっている。人はそれを手帳と呼ぶ。

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偏見と帰納(BBC子供乱入事件をきっかけにして)※書きかけ(?)

偏見 推論 知的態度

偏見と帰納BBC子供乱入事件をきっかけにして)

 

 私はいわゆる「差別」とか「偏見」というものの仕組みを、帰納的推論(インダクション,induction)*1を用いて整理できないかと思っている。

 

偏見の3段プロセス

プロセス(1) 学習と想起

過去の経験によれば,多くのXはYである

プロセス(2)予測

いまここ目の前のXもYであろうと予測される

プロセス(3)規範または願望または信念

いまこの目の前のXもYでなければならない、そうあって欲しい,それ以外はありえない,許さない,など

*1:帰納的推論inductionというのに対し,演繹的推論deductionという。先に調べてみるとdedctとは「差し引き」のことである。演繹とはより一般的な命題からより個別特殊な命題を導くことであるから,どうやら一般→個別と導出する際に「差し引き」されて脱落するものがあることが由来のようだ。ということは,deductと対になりそうなinductとは「足す」の意味であり,個別の例から一般的命題に飛躍するときに「足す」感じがするのが由来だろうか? と思って調べると,「足す」というより「誘導する」という感じだった。

inductionの意味 - 英和辞典 Weblio辞書

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デミアン・チャゼル監督「セッション」「ラ・ラ・ランド」

映画

デミアン・チャゼル監督「セッション」「ラ・ラ・ランド」

 

 3月に入ってからデミアン・チャゼル*1(米,1985-)監督の2作品を鑑賞しました。

セッション*2(2014,原題:Whiplash)

ラ・ラ・ランド*3(2016,原題:La La Land)

の2つです。

 「セッション」のほうはNetflixからiPhone6sにダウンロードして観ました。

 「ラ・ラ・ランド」は日本橋のTOHOシネマズで鑑賞しましたが,この劇場で公開されている作品の平均的な入場者数*4に比較すると,混雑していたと思います。なにせ,高額プレミアボックスシートの後ろの行にある私の座った席は,最安値の席の中でも特に鑑賞しやすい席であるために全座席の中でも1番人気であったとはいえ,私の両隣に観客がいるということはこれまでありませんでしたから。

 *

 デミアン・チャゼルの本職は主に脚本・監督のようです。これまでに数個の監督(いずれも兼・脚本)作品と,雇われ脚本作品があります。

 *

  「セッション」のストーリーは,ジャズドラムに打ち込む音楽院生が鬼教官に鍛えられるというものです。

 原題の"Whiplash"は劇中に登場するジャズ曲名ですが,辞書を引くと「ムチのヒュンと空を切る音」の意味があるとわかります。どうやら"Whiplash"というのは,曲名のみならず、鬼教官の厳しい指導も示唆するダブル・ミーニングのようです。

 芸能ニュース的な話をすると,「セッション」は2014年のショーレースを席巻しました。米アカデミー賞でも話題になり,特に鬼教官を演じたJ.K.シモンズが助演男優賞を獲得しました。

 *

 「ラ・ラ・ランド」のほうのストーリーは,ハリウッドを舞台にした恋愛ミュージカル映画です。ヒロインは女優を志して日々オーディションに打ち込みます。彼女と恋に落ちるのは,自分の店を構えることを目指すジャズピアニストです。2人はそれぞれの目標達成と自活,そして恋愛という3つを両立させるために最適化を目指すわけです。

 歌声を組み込んだような「ラ・ラ・ランド」というタイトルは,本作がミュージカル映画であるということに合致しています。さらに原題を表示すると"La La Land"なのですが,ポスターでは頻繁に大文字で"LA LA LAND"と表記されています。ここで舞台がハリウッドであることを思い出すと(そうか,ここでいうLANDというのはロス・エンジェルスつまりLAのことなんだろうな)と気がつきます。

 「ラ・ラ・ランド」は先月2/24に日本でも公開され,比較的ヒットしていると思います。Instagramで「ラ・ラ・ランド」に言及している友人もいましたし,カフェで近くの席の二人組のJKかJDが話題にしていることもありましたし,大学付近の交差点で大学生の男二人組が「ライアン・ゴズリングの声ってあんなだったんだって思ったわ」などと会話しているのを耳にしました。

 芸能ニュース的な話題をすると,「ラ・ラ・ランド」は2016-2017年の米賞レースを総なめにしており(総なめにしている作品は他にもありますが),先日2/27の米アカデミー賞では14部門にノミネートされ6部門で受賞しました。作品賞部門では,実際に受賞した「ムーンライト」ではなく,誤って「ラ・ラ・ランド」が読み上げられるという人為的トラブルもありました。英国の映画館ではこのミスをネタにして,「ムーンライト」上映開始直前にわざと「ラ・ラ・ランド」を少し上映するというジョークをやったところがあったそうです。

 

*** 

 

 「セッション」と「ラ・ラ・ランド」にはいくつかの要素を共有しています。

 「セッション」と「ラ・ラ・ランド」はいずれも,作品の中で音楽を中止的に扱っています。特に「セッション」の主人公はジャスドラマーで,「ラ・ラ・ランド」の男性主人公はジャズピアニストです。調べてみるとデミアン・チャゼル監督はジャズドラムを学んだ経験があるそうです。特に「セッション」にその経験が強く投影されていて,チャゼル監督自身厳しくしごかれたことがあるそうです。

 「セッション」と「ラ・ラ・ランド」にはいずれもジャズが登場する点で共通していますが、加えて「本物のジャズを究めたい」「本物のジャズを究めても生活していけるのか?」という「夢の追求と生計の両立の困難」という点でも共通しています。「セッション」の主人公は親戚との食事の席で、世間的に認められる学歴や職業を有しておらず成功の見通しが立っていないことを指摘されます。「ラ・ラ・ランド」の男性主人公のほうは、伝統的なジャズを演奏するカフェを開くことを夢見て俗な音楽を嫌いますが、生計を立てるために止むを得ず大衆受けするバンドに加入せざるを得ません。このように「ある道で一流として稼ぐことのできる人間はわずかである」「生計を立てるために、自分の目標を諦めねばならない」「生計のために、その道で自分の思想信条に反する仕事をせねばならない」といったことが、2作品に共通していることだと思います。

 そしてここにも、監督の実体験が反映されているのだろうと想像します。というのも,監督自身,脚本を執筆した自信作の「ラ・ラ・ランド」を撮影するために映画会社から資金提供を受けるにあたって,まず「セッション」の短編版を撮影して映画祭で評価を得てから「セッション」の長編版を撮影して評価を高め,「チャゼルに金を出しても安全であろう」という安心感を映画会社に与える必要があったのです。

 商業用ではない映画,つまり劇場での配給をしないを撮影することは物理法則によっては禁じられていません。カメラと被写体と動画の再生機器さえあれば映画として最低限の要素を持った動画を制作することができます。iPhoneを使って映画を作成する人もいます。しかしクオリティの高い動画を撮影しようとなると別であり,分業制とそれに伴うコストの増加が伴います。製作・監督・脚本・撮影・音響・編集・美術・衣装・演技・ロケ地確保・スケジューリングといった映画の撮影に必要な作業それぞれの作業量が膨大なものとなり,それぞれの作業に担当者がつき,それぞれに賃金を支払うということになります。無料でなんでもやってくれる人がいればよいでしょうが,しかし何らかの作業で一流になるには人生の中でもかなり時間を費やしますし,スキルを身につけた以後もそのスキルを発揮することに時間と労力が費やされますから,スキルの発揮に時間を費やすならばマルチタスクをすることは困難で,したがってそのスキルで生計を立てようということになります。なので質の高いスキルを持った人に作業をお願いするには,その人が生計を立てられるだけの報酬を支払うことが必要となるのです。そして作業は複数ありますから,そのそれぞれに報酬を支払うと,トータルの費用は膨大なものとなります。

 こうして映画の製作者は予算を提供してくれるお金持ちに頼らざるを得ません。そのお金持ちとしては,(資本主義社会においては?)私企業と行政とが考えられますが,後者は「公共の福祉」という大義名分のもとでは医療や軍事・教育といった,より生命維持に直結するものごとを優先して予算を分配しなければなりませんから,私企業が映画を製作する予算を持つこととなります。行政であれば納税を義務として市民からお金を強制的に集めることができますが,私企業はお金を支払うことを強制できません。したがってお金を払ってもらうためには商品を提供する必要があり,その商品とは映画です。ここに大衆受けする映画とか,大衆けせず芸術的な映画とかが関わってきますが「大衆受けするけれど芸術性の高い映画」のような扱いの難しい例もあると思われるので,ここでは触れないでおきます。

 さてクオリティの高い映画を製作するには,映画を商品として宣伝・配給を行いまとまったお金を確保できる映画会社に依存する場合がほとんどであるという話をしました。映画会社の資金源は1つであると仮定した場合,「大衆受けし,たくさんのお金を稼いでくれる映画」で資金を確保し,「大衆受けはしないのでお金は稼げないが,素晴らしい映画」*5の製作に資金を回すというやり方も考えられます。資金源が1つなら,トータルでの黒字赤字を考えればよいです。しかし現状では,1つの作品ごとに資金回収のため黒字を目指すという状況になっているように思われます。この状況だとどうしても費用対効果を考慮しながら黒字を極大化することを目指すことになり,そのさいに作品の内容などの質を,製作者の理想とは異なるように映画会社から要求されることがあります。これはつまり「生存のために理想を捨てる」という状況です。デミアン監督が直面しているこの状況が,目標か生計かの選択をせまられる「ラ・ラ・ランド」の男性主人公に投影されているのではないでしょうか。

 「ラ・ラ・ランド」がチャゼル監督の理想通りの作品だとしたら,この作品の商業的な成功は,理想が生計とマッチした,望ましい状況であるかもしれません。

 「セッション」はジャズ音楽そのものにストーリーの話題の中心がありますが,「ラ・ラ・ランド」の話題の中心はどちらかというと恋愛で,ミュージカル音楽はストーリーを語る手段であり、ジャズはあくまで主人公の1側面です。しかし「音楽と恋愛との両立」やそれを包含する「夢や目標と,恋愛との両立」という要素は両作品に共通しています。「セッション」の主人公は,ドラムに集中するために恋人と別れます。一方「ラ・ラ・ランド」のカップルは,それぞれの夢と、2人の恋愛と、どちらを選択するか考えます。

 

  

 

 

*1:デミアン・チャゼル - Wikipedia

*2:セッション (映画) - Wikipedia

*3:ラ・ラ・ランド - Wikipedia

*4:測定方法は野鳥の会よろしく私の目測であり,時間帯による変化もあるのですが

*5:両者は必ずしも排反ではないのですが