偏見と帰納(BBC子供乱入事件をきっかけにして)※書きかけ(?)

偏見と帰納BBC子供乱入事件をきっかけにして)

 

 私はいわゆる「差別」とか「偏見」というものの仕組みを、帰納的推論(インダクション,induction)*1を用いて整理できないかと思っている。

 

偏見の3段プロセス

プロセス(1) 学習と想起

過去の経験によれば,多くのXはYである

プロセス(2)予測

いまここ目の前のXもYであろうと予測される

プロセス(3)規範または願望または信念

いまこの目の前のXもYでなければならない、そうあって欲しい,それ以外はありえない,許さない,など

*1:帰納的推論inductionというのに対し,演繹的推論deductionという。先に調べてみるとdedctとは「差し引き」のことである。演繹とはより一般的な命題からより個別特殊な命題を導くことであるから,どうやら一般→個別と導出する際に「差し引き」されて脱落するものがあることが由来のようだ。ということは,deductと対になりそうなinductとは「足す」の意味であり,個別の例から一般的命題に飛躍するときに「足す」感じがするのが由来だろうか? と思って調べると,「足す」というより「誘導する」という感じだった。

inductionの意味 - 英和辞典 Weblio辞書

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デミアン・チャゼル監督「セッション」「ラ・ラ・ランド」

デミアン・チャゼル監督「セッション」「ラ・ラ・ランド」

 

 3月に入ってからデミアン・チャゼル*1(米,1985-)監督の2作品を鑑賞しました。

セッション*2(2014,原題:Whiplash)

ラ・ラ・ランド*3(2016,原題:La La Land)

の2つです。

 「セッション」のほうはNetflixからiPhone6sにダウンロードして観ました。

 「ラ・ラ・ランド」は日本橋のTOHOシネマズで鑑賞しましたが,この劇場で公開されている作品の平均的な入場者数*4に比較すると,混雑していたと思います。なにせ,高額プレミアボックスシートの後ろの行にある私の座った席は,最安値の席の中でも特に鑑賞しやすい席であるために全座席の中でも1番人気であったとはいえ,私の両隣に観客がいるということはこれまでありませんでしたから。

 *

 デミアン・チャゼルの本職は主に脚本・監督のようです。これまでに数個の監督(いずれも兼・脚本)作品と,雇われ脚本作品があります。

 *

  「セッション」のストーリーは,ジャズドラムに打ち込む音楽院生が鬼教官に鍛えられるというものです。

 原題の"Whiplash"は劇中に登場するジャズ曲名ですが,辞書を引くと「ムチのヒュンと空を切る音」の意味があるとわかります。どうやら"Whiplash"というのは,曲名のみならず、鬼教官の厳しい指導も示唆するダブル・ミーニングのようです。

 芸能ニュース的な話をすると,「セッション」は2014年のショーレースを席巻しました。米アカデミー賞でも話題になり,特に鬼教官を演じたJ.K.シモンズが助演男優賞を獲得しました。

 *

 「ラ・ラ・ランド」のほうのストーリーは,ハリウッドを舞台にした恋愛ミュージカル映画です。ヒロインは女優を志して日々オーディションに打ち込みます。彼女と恋に落ちるのは,自分の店を構えることを目指すジャズピアニストです。2人はそれぞれの目標達成と自活,そして恋愛という3つを両立させるために最適化を目指すわけです。

 歌声を組み込んだような「ラ・ラ・ランド」というタイトルは,本作がミュージカル映画であるということに合致しています。さらに原題を表示すると"La La Land"なのですが,ポスターでは頻繁に大文字で"LA LA LAND"と表記されています。ここで舞台がハリウッドであることを思い出すと(そうか,ここでいうLANDというのはロス・エンジェルスつまりLAのことなんだろうな)と気がつきます。

 「ラ・ラ・ランド」は先月2/24に日本でも公開され,比較的ヒットしていると思います。Instagramで「ラ・ラ・ランド」に言及している友人もいましたし,カフェで近くの席の二人組のJKかJDが話題にしていることもありましたし,大学付近の交差点で大学生の男二人組が「ライアン・ゴズリングの声ってあんなだったんだって思ったわ」などと会話しているのを耳にしました。

 芸能ニュース的な話題をすると,「ラ・ラ・ランド」は2016-2017年の米賞レースを総なめにしており(総なめにしている作品は他にもありますが),先日2/27の米アカデミー賞では14部門にノミネートされ6部門で受賞しました。作品賞部門では,実際に受賞した「ムーンライト」ではなく,誤って「ラ・ラ・ランド」が読み上げられるという人為的トラブルもありました。英国の映画館ではこのミスをネタにして,「ムーンライト」上映開始直前にわざと「ラ・ラ・ランド」を少し上映するというジョークをやったところがあったそうです。

 

*** 

 

 「セッション」と「ラ・ラ・ランド」にはいくつかの要素を共有しています。

 「セッション」と「ラ・ラ・ランド」はいずれも,作品の中で音楽を中止的に扱っています。特に「セッション」の主人公はジャスドラマーで,「ラ・ラ・ランド」の男性主人公はジャズピアニストです。調べてみるとデミアン・チャゼル監督はジャズドラムを学んだ経験があるそうです。特に「セッション」にその経験が強く投影されていて,チャゼル監督自身厳しくしごかれたことがあるそうです。

 「セッション」と「ラ・ラ・ランド」にはいずれもジャズが登場する点で共通していますが、加えて「本物のジャズを究めたい」「本物のジャズを究めても生活していけるのか?」という「夢の追求と生計の両立の困難」という点でも共通しています。「セッション」の主人公は親戚との食事の席で、世間的に認められる学歴や職業を有しておらず成功の見通しが立っていないことを指摘されます。「ラ・ラ・ランド」の男性主人公のほうは、伝統的なジャズを演奏するカフェを開くことを夢見て俗な音楽を嫌いますが、生計を立てるために止むを得ず大衆受けするバンドに加入せざるを得ません。このように「ある道で一流として稼ぐことのできる人間はわずかである」「生計を立てるために、自分の目標を諦めねばならない」「生計のために、その道で自分の思想信条に反する仕事をせねばならない」といったことが、2作品に共通していることだと思います。

 そしてここにも、監督の実体験が反映されているのだろうと想像します。というのも,監督自身,脚本を執筆した自信作の「ラ・ラ・ランド」を撮影するために映画会社から資金提供を受けるにあたって,まず「セッション」の短編版を撮影して映画祭で評価を得てから「セッション」の長編版を撮影して評価を高め,「チャゼルに金を出しても安全であろう」という安心感を映画会社に与える必要があったのです。

 商業用ではない映画,つまり劇場での配給をしないを撮影することは物理法則によっては禁じられていません。カメラと被写体と動画の再生機器さえあれば映画として最低限の要素を持った動画を制作することができます。iPhoneを使って映画を作成する人もいます。しかしクオリティの高い動画を撮影しようとなると別であり,分業制とそれに伴うコストの増加が伴います。製作・監督・脚本・撮影・音響・編集・美術・衣装・演技・ロケ地確保・スケジューリングといった映画の撮影に必要な作業それぞれの作業量が膨大なものとなり,それぞれの作業に担当者がつき,それぞれに賃金を支払うということになります。無料でなんでもやってくれる人がいればよいでしょうが,しかし何らかの作業で一流になるには人生の中でもかなり時間を費やしますし,スキルを身につけた以後もそのスキルを発揮することに時間と労力が費やされますから,スキルの発揮に時間を費やすならばマルチタスクをすることは困難で,したがってそのスキルで生計を立てようということになります。なので質の高いスキルを持った人に作業をお願いするには,その人が生計を立てられるだけの報酬を支払うことが必要となるのです。そして作業は複数ありますから,そのそれぞれに報酬を支払うと,トータルの費用は膨大なものとなります。

 こうして映画の製作者は予算を提供してくれるお金持ちに頼らざるを得ません。そのお金持ちとしては,(資本主義社会においては?)私企業と行政とが考えられますが,後者は「公共の福祉」という大義名分のもとでは医療や軍事・教育といった,より生命維持に直結するものごとを優先して予算を分配しなければなりませんから,私企業が映画を製作する予算を持つこととなります。行政であれば納税を義務として市民からお金を強制的に集めることができますが,私企業はお金を支払うことを強制できません。したがってお金を払ってもらうためには商品を提供する必要があり,その商品とは映画です。ここに大衆受けする映画とか,大衆けせず芸術的な映画とかが関わってきますが「大衆受けするけれど芸術性の高い映画」のような扱いの難しい例もあると思われるので,ここでは触れないでおきます。

 さてクオリティの高い映画を製作するには,映画を商品として宣伝・配給を行いまとまったお金を確保できる映画会社に依存する場合がほとんどであるという話をしました。映画会社の資金源は1つであると仮定した場合,「大衆受けし,たくさんのお金を稼いでくれる映画」で資金を確保し,「大衆受けはしないのでお金は稼げないが,素晴らしい映画」*5の製作に資金を回すというやり方も考えられます。資金源が1つなら,トータルでの黒字赤字を考えればよいです。しかし現状では,1つの作品ごとに資金回収のため黒字を目指すという状況になっているように思われます。この状況だとどうしても費用対効果を考慮しながら黒字を極大化することを目指すことになり,そのさいに作品の内容などの質を,製作者の理想とは異なるように映画会社から要求されることがあります。これはつまり「生存のために理想を捨てる」という状況です。デミアン監督が直面しているこの状況が,目標か生計かの選択をせまられる「ラ・ラ・ランド」の男性主人公に投影されているのではないでしょうか。

 「ラ・ラ・ランド」がチャゼル監督の理想通りの作品だとしたら,この作品の商業的な成功は,理想が生計とマッチした,望ましい状況であるかもしれません。

 「セッション」はジャズ音楽そのものにストーリーの話題の中心がありますが,「ラ・ラ・ランド」の話題の中心はどちらかというと恋愛で,ミュージカル音楽はストーリーを語る手段であり、ジャズはあくまで主人公の1側面です。しかし「音楽と恋愛との両立」やそれを包含する「夢や目標と,恋愛との両立」という要素は両作品に共通しています。「セッション」の主人公は,ドラムに集中するために恋人と別れます。一方「ラ・ラ・ランド」のカップルは,それぞれの夢と、2人の恋愛と、どちらを選択するか考えます。

 

  

 

 

*1:デミアン・チャゼル - Wikipedia

*2:セッション (映画) - Wikipedia

*3:ラ・ラ・ランド - Wikipedia

*4:測定方法は野鳥の会よろしく私の目測であり,時間帯による変化もあるのですが

*5:両者は必ずしも排反ではないのですが

「役に立つ学問」※後半はメモ書き

「役に立つ学問」※後半はメモ書き

 

 金曜日、とある駒場のカフェを訪れました。カフェの四方を囲む壁のうち1つは天井まである書棚で覆われていて,その書棚には小説や漫画,雑誌など様々な種類の書籍が置いてあります。たまたま自分はその書棚際に席を取ったところ,顔の位置に『現代思想』という青土社の雑誌が陳列してあったので,手に取ってみました。

 それは昭和50年の『現代思想』のある号でした。その号のメインテーマはデカルトだったと思います。『現代思想』の中ではいわゆる哲学について言論界の人々が語る趣旨の文章が多いのですが,科学哲学・科学技術史や科学技術社会論の研究者や,数学・物理学といったいわゆる理系の研究者による,数ページ程度の文章も掲載されることがあるようでした。

 当時矢野健太郎*1さんという数学者が「歩行と思索」という見開き計2p程度のコーナーを担当なさっていたらしく,そのデカルトの号でのタイトルは「理論と応用」でした。その「理論と応用」の趣旨は以下のようなものです。

 

数学の歴史の示すところによれば,全くの数学的興味だけから研究されたものであっても,その結果は,後に必ず素晴らしい応用を見出している。(本文より抜粋)

 

 そして矢野さんは4つの例を挙げて,数学が物理学に応用され「役に立ったのだ」と示しています:

① 円錐曲線論の,惑星運行論やそれを含む力学への応用

② リーマン幾何学の,一般相対論への応用

③ 射影幾何学の,統一場理論(射影相対論)への応用

ヒルベルト空間の,量子論への応用

ちなみに私個人は円錐曲線のごく一部の性質を知っており,かつ、ヒルベルト空間の定義について少し触れた程度であり,勉強の必要性を感じています。

 

 矢野さんの「理論と応用」を読んで私が思い出したのは「学問が(何の)役に立つのか」という,問いにかんする議論です。この問いに関する主張や言説はSNSなどにおいてしばしば見られ,私の周囲の友人などによって若干議論されたこともあります。今日はこの問いについて少し考えてみましょう。

 ただしはじめに注意しておきたいことがいくつかあります。まず第一に,問いというものはしばしば,期待される答えを提出するよりも,問いそのものの妥当性や,その問いがなされる状況や,問う人々や集団の背景について考察したほうがよいということです。また第二に「学問は役に立つか?」という問いについて私個人の結論を提示しておくと,これは「役に立つ」という言葉の意味をどのくらいの範囲で設定するかによって,答えがYesにもNoにもなるということです。つまり言葉の意味にはしばしば恣意性があるため,意味を恣意的に取れる言葉を含む問いへの答えは意味の取り方に依存するということです。

  では始めましょう

 

 まず一般的な学問の区分において、「それって何の役に立つの?」という指摘がなされる頻度が最も多いのは哲学であると思います。次に数学、その次に物理学が来るでしょうか?これらの順序づけはあくまで「役に立たない」と指摘されている頻度を私の経験から判断したものでありますが、とりあえずこれらを「役に立つ」度における「ワースト3」と名づけておきましょう(私がこれらを何らかの意味で「役に立たない」と考えているという意味ではなく、あくまで議論を便利にするためのラベリングです)。

 さてこれらワースト3の学問は、なぜ頻繁に「役に立たない」と指摘されるのでしょうか?その理由を考えるために「役立つ」度の高い学問を考えてみましょう。するとおそらく多くの人はまず第一に医学や薬学を挙げるだろうと、わたしの経験から予測します。ついで農学や工学を挙げる人もいるかも知れません(ところで法学や経済学はいかがでしょうか?「文学」は?)。ではなぜ、医学や薬学、農学や工学は「役に立つ」のでしょうか?まず医学と薬学は、病気の人を治療し元気で健康にするための学問です。また農学の一分野は食糧生産の増大・効率化をはかる学問です。また工学は、車やスマートフォン、インターネットといった暮らしを便利にすることに貢献します。というわけでどうやら我々は一般的に、健康や食糧生産といった生命維持に貢献する分野や、(それらに関連する)作業にかかる時間や労力を短縮する分野を「役に立つ」と表現しているらしいのです。

 では「ワースト3」についてはどうでしょうか?確かにこれらの学問は、少なくとも直接的には、生命維持に貢献したり、時間・労力の節約には貢献しないという意味で、「役に立たない」と表現され得るでしょう。思想が記された本、数式や実験データの記された本を読んで、そのまま病気を治したり、食糧をより多く生産したりすることはできません。つまり「ワースト3」の学問は、生命維持や時間・労力の節約を実行する方法・マニュアルを述べたり、実行する手段そのものであったりはしないのです。そういう意味で「ワースト3」の学問は「直接的」には「役立つ」ものではないと思います。

 また矢野さんは4つの例について「素晴らしい応用」と言っていますが、あくまで上述の定義に照らす限り、素晴らしい応用ではあれど「役に立つ」とは限らないということになります。

 

 さて以上の通りに「ワースト3」の学問が人間にとって「直接的」に「役立つ」ものではないことがはっきり示されると、「ワースト3」のいわば擁護派からは、特に次の2点の指摘がされることがしばしばあります。

 

指摘① 間接的に役立つ派:

 「ワースト3」も間接的には役立つ。確かに直接的には役に立たないかもしれないが

 

指摘② 開き直り派:

 そもそも学問研究というのは、役立つかどうかではなく、好奇心や興味にしたがって行われるものである。あるいは、自分は好奇心や興味にしたがって研究しており「役立つかどうか」は眼中にはない

 

 それでは以下でこれら指摘①②について考えて見ましょう。

 まず指摘①「間接的に役立つ派」についてです。例えばGPSに相対論やそれに関連する数学的手法が応用され,そしてGPSが人間の道案内をして時間や労力の節約に役立つように,物理学理論や数学的手法が工学など"他の"学問に不可欠なものとして応用されそして工学が人間にとっては直接役立つのだとすれば,例え人間にとって直接役立つ度合いは「ワースト」な学問であっても直接役立つ度合いが「ベスト」の学問にとって 不可欠なのであれば「間接的」には人間の役に立つということになります。

 ただし「ワースト」の分野の中には,指摘①によっても救済しきれない分野もあるでしょう。というのも以下の2種類の漏れがあり得るからです。

 

漏れ① 間接的にすら「役立つ」とは言えない思想・理論の存在

 上記において「生命維持や時間・労力の節約に寄与する」ことを「役立つ」とし,「直接的」に「役立つ」のが「ベスト」の分野であり,「ワースト」の中には「ベスト」の分野に応用されることで「間接的」に「役立つ」分野もあるとしましたが,間接的にすら「役立つ」とは言えない分野も存在するはずです。たとえば

 

漏れ② 応用可能性判明の事後的側面

 現在応用され間接的に役立っている分野ですら,創始当時はどのように応用されるかわからなかったということもままありますから,現在間接的にすら役立っていないからといって今後も永遠に役立たないとは言い切れないということです。これは,理論の内部にはある理論が応用されるかどうかの可能性はその理論の内部には包含されていないという事情によります。理論はあくまでその対象について述べるのみで,対象に応用の視点が含まれていない限りは応用は理論の必然的帰結ではないのです。

 なおあらゆる理論の応用が事後的に判明するという意味ではありません。たとえば熱力学の理論形成を後押ししたのは、産業革命期の技術発展であると言われています。つまり応用が理論に先行していたのです。一方で電磁気学は電気技術に先行したので、理論形成の念頭に技術的応用はさほどなかったのではないかと考えられます。

 

 というわけで,間接的になら役立つ学問もありますが,間接的にすら役立つとは言えない学問はあります。そういった学問を行うことの意義を,どう説明するのでしょうか。そこで上記の指摘②「開き直り派」のような反論が存在し得ます。つまり役立つとか,意義とかのために学問をしているのではないのだと。純粋に興味や知的好奇心のために思索研究するのだと。この文章の冒頭で引用抜粋した「理論と応用」のなかの一文で矢野さんが「純粋な興味」と発言する背景には,ここまでのこういった議論や考え方が背景文脈としてあるのだと推測しています。

 

 このまま指摘②「開き直り派」の意見について考えたいところですが,先に次のことを考えておきます。

 それは「その学問は何の役に立つのか」という指摘に対し「役立つかどうかという問題ではない」という意見が出た時点で,「役に立つのか」という疑問はどういうものでどういう考え方が背景にあってなされるものなのかが疑問になってくるということです。そもそも「『役に立つことをしよう』という価値観のもとものごとの『役に立つ』度合いを増す」という線型的な土俵に立たない観点があるのですから,そういう観点からは「役に立つ」という疑問が発せられる状況について考察する必要があると思うのです。

 差し当たり私からは3点ほど、「どの学問が何の役に立つか」という問いが発せられる背景を挙げておきます。

背景① 予算や労働力の分配;科学技術政策や企業運営:複数の集団がそれぞれ研究をしたいが、資金源・労働力源が1つであり源が有限である場合、どの研究にどの程度の分配を行うかを考えねばなりません。そのさい「悪い」やりかたで分配がされないため、また分配のしかたについて多くの人々にとって納得のいく説明をするためには、分配方法について何らかの基準や尺度を設け各研究を評価することになります。その評価尺度としてはしばしば「役に立つ」かどうかが優先的に使用されます。科学技術政策を担当する行政にとっては「『公共の福祉』に貢献するかどうか」が役に立つかどうかに等しくなります。また利潤追求を至上命題とする企業にとっては「消費者が多く求める商品を開発・発案できるかどうか」が「役に立つかどうか」に等しくなります。

研究が役立つかどうかを提供するには、研究者たちは費用や所要期間を含む研究計画や期待される結果を説明せねばなりません。しかしここで注意したいのが、自然科学はその対象について確実かもしれないが、自然科学の対象にかんする研究については確実さがだいぶ劣るということです。発見・発明されたものについては確実さが保証されるかも知れないが、発見・発明をするための絶対確実な方法論は発見・発明することがむずかしいのです。この事情は先述の「応用可能性判明の事後的側面」と関係があります。

背景② 生活の視点:「役に立たない学問なんかやめちまえ」という指摘をする人としてはしばしば、親などの保護者が考えられます。「役に立つ」と言えない学問は需要が少ないだろうからしたがって供給源としての職業のポストも少なくまた収入も少なく、ゆえにその職業に就くことや就いて生計を立てることが困難であるだろう、という考え方が背景にあるのだろうと思われます。

 

背景③ 心理的・社会的意味合い;個人のプライドの維持:「その学問が何の役に立つんだ」という疑問の提示は、純粋な興味のため、何らかの論拠にするため、にはなされていないこともあるのではないかと感じることがあります。ではいったいそういった疑問を提示する人の心理はどのようなものなのかと考えてみると「その学問は役に立たない」と断ずることにより、何らかにおいて自己を優位に置こうとする心理がはたらいているのではないかと思います。そういった人はあらゆるものごとについて「役に立つかどうか」を問いたいのではなくて、学問にかんして抱いている何らかの劣等感を解消するために、自分が向上するのではなく、自分の不得手な学問のほうを下位に置こうとするのです。その手段として「役に立つ」かどうかという生命維持・生計の視点を導入することが、おそらくたまたま都合がよいのでしょう。人によっては、自分が「役に立たない」と考えていた学問について何らかの知識を得たなら、機会があれば得意になってその知識を披露するかも知れません。

 

 さてそれでは指摘②「開き直り派」について考えてみましょう。改めてこの主張を確認すると、何らかの研究や思索を行なっている人々が「自分が研究や思索を行う最大の動機は、純粋な興味や関心であって、(上記で定義した)『役に立つかどうか』という価値観ではない」というものです。

 少し考えてみると、我々は誰しも自らや他者のあらゆる行動を「役に立つかどうか」という尺度で評価してはいないことに気がつきます。我々は、必ずしも「役に立つ」とは言えない行為や、いつ「役に立つ」のかも分からない行為に時間や労力を割くことがあります。我々はしばしば趣味や遊び、ゲームだとか、酒タバコや友だちづきあいに時間や労力を割きますが、それらの行為は、それら自体が何にどう役立っているかと問われると、答えを見つけたり、(いまやっていること、やりたいことが自分にとって重要だという確信があったとしても)答えを言語化したりすることが困難であったりします。そして学問というのを、趣味を行うことと同じように行う人がいるということが、「学問は純粋な興味関心にしたがって行われる」という発言から想像されます。

 しかし趣味や遊び、ゲームや酒タバコ人間づきあいに対してはいちいち「それって何の役に立つの?」と問うて議論したり批判したりする人はさほど多くないのに、どうして学問についてはその問いが比較的頻繁になされるのでしょうか?それはおそらく、趣味や遊び、ゲームや酒、タバコ、人間づきあいをすること(そういったものを商売として供給することではなく、あくまでそういった商品を消費すること)で成型を立てる人はほどんどいなかったり目立たなかったりするのに、研究で生計を立てる人がいるからではないでしょうか?

 あるいは上記背景①②③に戻る。

→背景①②③の指摘の対象外となる学問については趣味好みの領域であって他者に迷惑をかけない限り「役立つかどうか」という問いに意義がないのでは?

 

  

●研究、芸術、スポーツの類似点と相違点

 ・類似点:興味関心や楽しさのため

 ・研究は、スポーツや芸術に比べ楽しみを共有しにくい (作品やパフォーマンスといった分かりやすい/商品化しやすい商品を提供しない) 

→芸術やスポーツは研究に似ている点もあるが「役立つかどうか」が問われる頻度は低い

 関連して,自然科学などの「知識」そのものは商品として成立しないので,知識で商売するには「知識そのものを売る」のではなく「知識の記された書籍を売る」か「知識を教える」などせねばならない。というのも知識は「味見できない」「切り売りできない」から。一般にある商品を購入するさい,消費者はその商品の持つ効果を予測し,その効果を得ることを期待して対価を支払う。そして商品の効果の予測のさいには,「かつて自分が同じ商品を購入したときにどんな効果を得たか」「他者がどのようにその商品をしようし効果を得ているか」などを参考にする。しかし知識の場合,それがどんなものかが1度わかってしまうと,2回以上購入する必要がない。知識はそれを伝達する手段に密着している。

 

 

映画を観るときに気をつけること(気をつけているようではいけないこと)

映画を観るときに気をつけること(気をつけているようではいけないこと)

 あらゆる映画を観尽くすにはお金も時間も足りません。限られた時間とお金を使って映画鑑賞の体験をより素晴らしいものにするため*1に私は、映画作品の受賞歴や、他者による評価、予告編などを参考にします。公開されるあらゆる映画を知ったうえで、受賞歴などの評価評判を判断材料にし,比較衡量して観る映画を絞ります。

 私は映画を評価する基準や視点を他者と共有しているわけではありませんから、受賞歴のある映画・評判になっている映画*2が、私にとって素敵な映画と一致するわけではありません。けれどこの方法で映画を絞ることにより,だいたいの「ハズレ」作品を避けることができます。

 

 そしてここで強調したいのは、他者による評価評判を参考にするのは,あくまで「観る映画を絞るため」だけであり、その映画に対する「他者による評価評判」と「自分による評価」はまったく別であるということです。他者による評価評判が、その映画に対する自分による評価評判に混じり込んでしまってはいけないのです。

 これはつまり、ある映画について自分の体で見聞きし感じたことを、他者のことばを借りずに自分で語るということです。そしてこの姿勢を、映画を観るときだけではなく、あらゆるものごとに向かう姿勢として理想としたいものだと思っています。

 え?他者から借りてこないことばは他者と共有できないんじゃないかって?

 「他者のことばを借りない」というのは、決して「既存の表現を使用してはいけない」ということではありません。「こういう場面ではこういうことばを使う」と知っていたとしても、実感を伴わないような表現を使うということを避けなさいということです。何も思わないなら、黙っていなさい。

*1:映画を観ること自体が目的になると大変つまらなく感じます。映画を通じて何らかの素晴らしい体験をすることが最終的な目的です。

*2:こちらの場合そもそも映画ではなくコンテンツが評判になっていることもある