映画「夜は短し歩けよ乙女」

映画「夜は短し歩けよ乙女

 

 森見登美彦原作『夜は短し歩けよ乙女』映画版を観てきた。今日からの公開である。監督は湯浅政彦という人で,湯浅は同作者の『四畳半神話大系』も2010年にアニメ化している。

続きを読む

砂漠のトカゲ

砂漠のトカゲ

 

 あらゆる言葉を言葉で定義しようという試みは,砂漠で地面の暑さに耐えかねて手足を上げ下げするトカゲのようではないか,などと思った。

 

続きを読む

自分の世界認識の整理:「私」

自分の世界認識の整理:「私」

 

 以下で記すのは、自分が自分や世界について考えたことを「雑な抽象化」のもとで、なるたけ短くまとめようとした結果。

 

続きを読む

「私」

「私」

 脳の仕組みについてはほとんど知識がない。図鑑で解剖図のようなものを眺めた程度で、「認知脳科学」とか「脳神経科学」といった分野の講義の単位を取ったことも、教科書を熟読したこともない。

 

 そのように、現代の最先端の知識を持っていない自分が、脳というもの、そしてそのはたらき、について述べることは多少なりとも憚りがある。しかしながら以下で自分が述べることのいくつかは「実験的検証にかけられ得る仮説である」とすることによって、語る資格をなんとか得られないかと思う。

 

 ただし注意点が2つある。

 

 1つ目。自分が以下で語ることのうち、実験によって検証することが妥当なのは、あくまで一部であり、全てではない。というのも、私が語ることのうちの残りは、いわば「言語の学習」「言葉遣いの学習」に相当するからだ。言語の学習というのはつまり、1つは、「ある概念(ほぼ、言葉)が、この現実世界における、どのような物質や現象、そしてそれらを体験して我々の見出す『感じ』に対応するか」を知ることである。またもう1つは「ある言葉が、ほかのどのような言葉と共に連関して使用されるのか、つまり『コロケーション』を知ること」である。

 以上のような言葉の学習はたとえ妥当性は問われようとも、いわば「命題」とは異なり、真理性が問われるものではない。したがって言葉の学習は、実験的検証にかけられることができないのである。私の文章の一部はそのような言葉の学習であり、また残りは実験的検証にかけられ得るものであり、また残りは、気持ちや感想といった、内面的なものの表現である。

 

  2つ目の注意。「実験的検証にかけられ得ることを語る」といっても、「できる限り」という条件がつく。というのも、語りの対象次第では「単位と測定方法を定め、方程式を数値的に検証する」という物理学の、つまり自然科学のうちでも特に厳密な、実験的検証を行うことは難しいからだ。ある種の語りは、確かに、実験などの経験によって確かめることはできるけれども、数値的検証ほどに厳密に行うことは難しい。またさらに、環境の再現性も低い。それが起こる状況をいつでもどこでも再現することができるわけではないから、簡単に実験することができない。1度それが起こったとしても、次にいつそれがやってくるか分からない。私の語りは、しばしばそういう、数値的検証も困難で再現性の低いことがらに注目している。

 

 私の語りを、以上2点の注意のもとで読んでいただきたい。

 

****

 

 などと思ったけれど,結局自分が以下で語ることというのは,カテゴライズの問題なのかも知れない。カテゴライズの問題に過ぎないのかも知れない。

 

****

 

 「内観」という作業がある。内観というのは,自分自身の気持/精神/心理の状態を,自分自身で観察することである。あるいは「内省」という単語を使ってもいいと思う。

 私は結局,内観というのも「外観」なのではないかと思う。

 「私」というものは,あたかも目がその目自身を観察できないように,それ自身のはたらき・機能を観察することのできない脳(のある部位)に属していると思う。それ自身を感じることのできない「私」(を司る脳(のある部位))は,おそらく一般には内観の対象として扱われない,例えば筋肉の疲労を感じるようにして,気持ち/感情/心理を”内観”する。ところが「私」というものは自分自身を感知できないから,"内観"というのは,実は「外観」なのである。気持ち/感情/心理も,「私」の外側にあるという点においては筋肉疲労と同じなのであると思う。

 そして私は,五感というものや,五感によって感じられるものを,気持ち/感情/心理といった感じられることと区別しない。そして,それら五感によって感じられるもの,五感,気持ち/感情/心理といったものはいずれも,「私」による思惟思索の対象であると思う。そして五感によって感じられる物体物質であろうが,気持ちであろうが,確かに感じられさえするならば,私は実在すると思う。

 「私」はそれ自身を感ずることができないのに、どうして「私」について私は語り得るのか。それはなぜなら、「私」というものはイメージされるものに過ぎないからだ。

 というのはやはりカテゴライズの問題だと思うのだ。ある漠然としたものからはっきりとしたものを切り出してくると、残りもはっきりと切り出したくなる、そんな心のはたらき。

 

 以上はおそらく,空間的なイメージによってものごとを把握しようとすることに制約された,世界の理解の1つのかたちだ。