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WORDS

-それ以外に抽象しようのない-

恋愛のこと(客観から主観へ)

 恋愛をしたことのない人間が恋愛に憧れること・恋愛をしたがることが可能なのは,映画・ドラマ・漫画・小説・(最近では)SNSなどのメディアによって提示される,恋愛のやり方として提示される行為*1への共感によると思っている.人々に共感され憧れられるものとしての恋愛の理想像を達成し得られる幸福感の存在を仮定して,私は「客観的な恋愛の幸福」と呼ぶ.ほかの人たちと恋愛ついての話をしていて,「外から見た幸福」あるいは「意味づけを持った幸福」という表現も得た. 

 

 ところで,それらの行為をする相手が誰であったとしても恋愛特有の感情が生ずるわけではないとも思う.恋愛特有の感情が生ずる相手への条件までもが,提示されるイメージによってすっかり決まる人もいるのかもしれないが,しかし実際に恋愛の相手となる人間がすっかり提示されるイメージ通りであるということは,経験からしても,また知人の語りや街ゆく人々の様子を見ていても,ないように思えてくる.

 恋愛についてのイメージを提示するものは,客観的で外から見た幸福のかたちを提示するが,しかし恋愛の相手がまさにその人間である理由や経緯といった個別のものは提示しきれない.個別のもの,この私の身体を持ったもの以外が体験できないものによる幸福は,私にとって「主観的な幸福」と呼べるものであって.持続的な恋愛関係にとって重要なものに思える.

 

 客観的な恋愛の像を実現して幸福感を得ることが,つくりもの,「真の幸福」とでも呼べるものではないとは言わない.身体的な感覚として幸福感があると主張する人がいるのなら,それを否定はできない.また多くの人の共感を呼ぶということは,やはりなんらかの(物理)法則へと究極的には還元される現象として,幸福の感じられ方があるのだろうと思う.

 しかし提示されるイメージに共感するときに常に忘れられているのは「それを実際にするとき,誰と一緒か」であり,なんらかの行為を共に行う相手の存在と,相手を前にする私の身体の存在とが見落とされていると思う.幸福の理由が憧れの像を実現したことにあり,まさにその行為の瞬間・行為そのものに幸福の理由がなかったとき,その行為そのものがわたしにもたらす幸福や,まさにその相手がわたしにもたらす幸福がないことになってしまうと思われた.

 

 ここまで「恋愛」という名付けを用いて,1対1の人間関係のありかたの一般的なかたちの1つとしてそれがあることを仮定した話の進め方をしていたのだが,恋愛の一般的なイメージとして提示される行為によらず,「まさにこの私が,ほかでもないこの相手と,この行為をすること」について1対1の人間関係においてなんらかの特別な感情を得るとき,「恋愛」というラベルを貼り一般化することはできないと思われなくもない.けれど少なくともその特別な感情がなんらかの意味で生殖とは不可分であるときには,「恋愛」というラベルを剥がすことができないとも思う.

*1:具体的には,ふたりで浴衣を着て花火を見に行くことに憧れそれを実行することで幸せに思う,だとか.