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WORDS

-それ以外に抽象しようのない-

映画「サウルの息子」

「サウルの息子」 

 原題:Saul fia

 2015年,ハンガリー

 107分

 監督:ネメシュ・ラースロー Nemes Laszlo

 主演:ルーリグ・ゲーザ Rohrig Geza

 

  1.  監督のネメシュ・ラースローが師事したのは,「ニーチェの馬」などの監督タル・ベーラ Tarr Belaであるという。タル・ベーラ長回しの使用により,全編154分の「ニーチェの馬」を全カット数30程度で構成した。ベーラの弟子とも言えるラースローも,本作にて時折長回しを見せる。
  2. なお主演のルーリグ・ゲーザは俳優を生業にしておらず,詩人であるという。

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全編のあらすじ

 第2次大戦中,ハンガリーユダヤ人の主人公サウルはナチスの収容所で「ゾンダーコマンド」,すなわち「数ヶ月間殺されずにおかれる,ユダヤ人の雑用係」として使役されている。ある時「殺処分*1」が終わった後,珍しく生き残りの少年が見つかるが即座に殺される。その少年はサウルの息子であるらしく(実際にはその少年がサウルの血の繋がった息子なのか確かではない,という記述もあるが,私は作中からは読み取っていない),サウルは「息子」の死体を回収し,ユダヤ教のラビを探し出して,教義に則った儀式を行って葬ろうとする。

 並行して,ゾンダーコマンドの脱走計画が進行しており,主人公は周囲のゾンダーコマンドに流されていく。

 脱走計画が実行に移され,サウルは「息子」の遺体を抱え,直前に見つけたラビらしき男を引きずるようにして流れに乗る。収容所から離れた森の中の川岸でいざ「息子」を埋葬しようとラビらしき男に文言を唱えるように促すも,口調は曖昧でたどたどしい。サウルは「息子」の埋葬も土をかけた程度にし,追跡者から逃れるため川を渡った先のあばら小屋の中で他の脱走者と共に5分だけの休憩につく。

  そのあばら小屋を金髪碧眼の少年が覗き込みんだことに,脱走者の中でサウルだけが気づくが,サウルはそのことを他の脱走者には伝えず,ただ少年に微笑みかける。少年は去り,直後に追跡者たちが小屋に辿り着き,森の中に銃声が響く。最後,少年は森の中へと走り去る。

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気づき

2015.03.01 ヒューマントラストシネマ有楽町にて

  1. アスペクト比と1人称視点。「サウルの息子」の画面の縦横比は1 : 1.33(スタンダードサイズ)だろうか?映画前のCMや予告編が終わって本編が始まると,画面の縦の長さを保ったまま,横の長さが小さくなることに気づく。そのため,映画冒頭で被写界深度の浅いレンズを用いて,サウルの上半身を画面いっぱいに写すと,画面の中で映り込むサウルの周囲の面積は小さいし,移ったとしてもボやけてはっきりと認識できない。カメラは多くの場面でサウルだけにピントを合わせ,周囲の様子をはっきりと写さない。写されたサウルも伏し目がちである。このような撮影方法は,ユダヤ人収容所という閉鎖的な環境で囚人が暴力と死とに怯えながら萎縮して歩く状況を我々に体験させる効果を持つかもしれない。ここでは殺人もまた,視界の端のぼやけた出来事として描写される。
  2. 「殺処分」の場面は,カメラがサウルに張り付いており,処分される人々を直接移すことはないがゆえに,効果を持つ*2
  3. 「人間の尊厳」なるものについて。サウルの「息子」の埋葬は中途半端に終わる。見つけたラビらしき男は,儀式の文言を唱えること能わなかった(それは男が「自分はラビである」と嘘をついていたためかもしれないし,生命が危機的な状況で文言など忘れていたからかもしれないが,いずれにせよ)。そして自らが死なないため土葬を急ぎ,死体に土をかぶせた程度で終わる。ここで顕著に見られるように,サウルは常に,他者の埋葬と自己の生死とを天秤にかけている。このような状況を指してか,映画の宣伝ポスターは次のような文句を謳っている:最後まで〈人間〉であり続けるためにー(中略)サウルは,息子の遺体を正しく埋葬しようと,人間の尊厳をかけて最後の力を振り絞る。 ここで,最後まで〈人間〉であり続けるのは,埋葬をする側なのか,される側なのかは,定かではない。しかしここでは,「自己保身」が至上命題となり最低限の生命維持に個人のエネルギーが費やされるユダヤ人収容所という状況下で ,埋葬という(ヒトを他の動物と区別する特徴であると考える者もいる)行為を行わんとするサウルが,「〈人間〉であり続け」ようとしている,と解釈することもできよう(残念ながら,この「尊厳」云々に関しては,事前知識が介入してしまって,映画のみからの読解をすることが妨げられてしまった)。
  4. 微笑みと代理。物語の結末でサウルが,金髪碧眼の少年にただ微笑みかけるのみで,危害を加えることをしないのは,埋葬が中途半端に終わった「息子」の代理として少年を見なしているか,あるいは,「息子」に注いだ情の名残を少年にも与えたからではないかとも思う。

*1:この言葉遣いは私独自のものである

*2:この「効果」は,あなた自身が確かめていただきたい