映画「地獄の黙示録」特別完全版

地獄の黙示録」特別完全版

 原題:Apocalypse Now

 1979年,アメリカ

 202分

 監督:フランシス・フォード・コッポラ Francis Ford Coppola

 主演:マーティン・シーン Martin Sheen

 共演:マーロン・ブランド  Marlon Brando

    ロバート・デュバル Robert Duvall  ほか

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全編のあらすじ

 ベトナム戦争中。サイゴンにて。アメリカ軍に属する主人公は,あるアメリカ軍人の暗殺任務を下される。その大佐は軍規を逸脱した行動を取り,軍を離脱し,カンボジアとの国境付近に原住民を従えて国を作っていた。

 主人公は1隻の船で数名の海軍兵を従え,川を遡り任務遂行を目指す。途中で幾つかの地点に寄港し,アメリカ軍の「実態」を目にする。

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気づき

2016.04 Blu-rayを,自宅にて

 

  1. 船旅の分割。主人公一行の乗る船は「大佐の暗殺」という1つの目的を達成するために大河を上る。その航路は,幾つかの陸地に寄ることによって,寄った陸地の数だけ分断される。1つの大きな船旅の物語を構成する小さな物語が,途中で上陸する陸地の数だけ,ある。このことは私に,ギリシャ神話のアルゴ号の船旅を想起させる。サイゴンを出港した一行の旅を構成する小さな物語の一覧は,次の通りだ:  ①キルゴア中佐(演:ロバート・デュバル)率いる,ワルキューレを轟かせる空の騎兵隊との合流と,離脱 ②プレイメイトたちのショーとの遭遇 ③指揮官不在の基地での,プレイメイトたちとの遭遇 ④指揮官不在の最前線基地 ⑤フランス人入植者たちの農園 ⑥大佐の「王国」また航海中,②と③との間には,船員の麻薬への依存と,ベトナム人の輸送船との遭遇が描かれている。④と⑤との間には,原住民による川岸からの襲撃が描かれている。
  2. 小さな物語の存在意義について。小さな物語はどれも,「大佐の暗殺」という目的の達成に直接的に寄与するものではない。①〜⑤の物語には大佐は登場せず,大佐の居場所に近づいているだけである。大佐は物語⑥にようやく登場するが,ここには戦闘らしい戦闘はない。もしこれがアクション映画であったならば,戦争というもっともらしい構造を利用して,大佐を描き,大佐との戦闘を見せるだろう。けれども「地獄の黙示録」は,大佐の暗殺という目的の達成という構造を利用して,戦争を見せる。「地獄の黙示録」が見せたいのは,①〜⑤の小さな物語とその合間とで描かれるベトナム戦争であって,「大佐の暗殺」という目的は,それぞれ単独で描くことも可能で断片的な①〜⑤の物語を結びつけつなぎとめるために脚本に設定されているのであろう。小さな物語のそれぞれは,劇中の主人公たちにとっては目的ではないけれども,映画の作り手にとってはベトナム戦争の描写という目的そのものなのであろう。
  3. 各物語において際立つものごとについて。物語①について。この場面では,テレビの取材班は演出を気にして兵士に指示を出し,空の騎兵隊は殺戮を楽しみながらサーフィンし死体にトランプのカードを配る。物語②で兵士の慰安に訪れるプレイメイトが登場し,物語③でそのプレイメイトたちが半ば強制的に働かされていることが描かれる。また物語③においては,指揮官不在で規律を失った兵士たちの様子が描写される。物語④においてはフランス人という第3者的立場から(間接的には当事者とも言えるが),アメリカへの非難とも思われる指摘がされる。物語⑤においては物語③同様,指揮官不在の戦線が描写される。
  4. ベトナム戦争批判について。コッポラは一般的な戦争を批判しているとは思わないが,少なくともベトナム戦争という個別の事例を,批判的に見ているだろう。その批判は,戦争を劇場型に仕立てることに寄与するメディアや,兵の規律の解体といった戦争の周辺のことがらに対しても向けられていはいるが,何よりも戦争を遂行する人間たちへと向けられた批判は,全編を貫いている。物語①で,騎兵隊は,自らが負傷させたベトコンを,治療する。また物語②と③との間での輸送船との遭遇で,主人公の仲間は自らが負傷させたベトナム人を治療しようと菅,主人公は容赦なくベトナム人を殺害する(面倒を避けるため)。そのような,「傷つけ,癒す」という行為を首尾一貫しないものとして捉える目線をコッポラは持っている。コッポラが「傷つけておきながら癒す」ことに矛盾を感じるならば,「傷つけるなら徹底的にやれ」と戦争の倫理や規範を設定する者の自縄自縛的な態度(これは現在のアメリカにも見られ,またダークナイトも然り?)を批判する結論に至るのか,「癒すのならそもそも戦争をするな」という反戦的な結論に至るのか,それとも他の選択肢があるのかは知らないが。私はどちらかというと最初の結論を支持する立場にコッポラは立っているようにも思う。というのも,主人公一行が暗殺線とする大佐を軍が問題視した一因は,大佐の軍規からの逸脱にあり,その「逸脱」とは「命令/許可されていないこと」をやったというものあのだが,その「逸脱」は確実にアメリカ側の勝利に寄与する作戦であったらしいからだ。つまり大佐は「戦争に勝利する」という目的達成へと確実に寄与する行動をとったのだが,しかし軍上層部はそれを「許可/命令に基づいていない」ものとして問題視した(そのような,勝利以外の価値観を持ち込むことによる自縄自縛的態度への反対か,失望か,ゆえに大佐はアメリカ軍を離反したらしいと推測される)。そして主人公が大佐に同情する独白が作中にはあり,また輸送船での主人公の行動は主人公の大佐に近い態度を示しているようにも思う。コッポラが主人公を(観客が感情移入する対象として,かつ)自身の代弁者として描くのならば,コッポラの立場は主人公のそれに近いであろう。そして主人公の立場とは,ベトナム戦争を推進し規律や倫理を設ける者たちの不明瞭で徹底しない態度への苛立ちを抱くものである。物語③や⑤に現れる「指揮官不在の戦場」は,「指揮官不在」自体の事実描写というよりも,ベトナム戦争の推進者の曖昧で明確な戦争推進方針の欠如の象徴であるようにも思う。
  5. 「黙示録」と"Horror !"について。前者は本作の原題と邦題とに共通して登場する語であり,また後者は大佐による劇中での,そして主人公によるラストでの発言である。前者について,本作におけるキリスト教的観点からの考察はしていないし知識に欠けるからその意味を推し量りかねているし,後者についてはただただよくわからない。
  6. コッポラという監督について。私はコッポラという監督の作品を貫くテーマや思想/信条のような者を見出してはいない。「地獄の黙示録」の他に「ゴッドファーザー」3部作や「カンバセーション」を鑑賞した限りでは。コッポラが「地獄の黙示録」を純粋なベトナム戦争という個別の事例に関する個別の立場を映画的に表現したものだというのなら,その時点で「コッポラ作品群の統一性」と「地獄の黙示録」との関係性について語る意義は失われるように思う。