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WORDS

-それ以外に抽象しようのない-

他者を支えるときの注意

  • 帰省しています。新幹線に乗りました。
  • あなたが椅子に座るとき,椅子はあなたの体の全てを支えてはくれないだろう。あなたがもし完全に脱力したとしたら,椅子はあなたを支えること能わない。あなたは椅子からずり落ちる。椅子からずり落ちるほど脱力した状態の脳は,何も成し遂げないだろう。
  • 椅子はあなたの体を全て支えるものではない。あなたが自分自身の体を支え(ながら何かを成し遂げ)ることを支えてくれるものなのだ。そして私が他者を支えるとき注意したいのは,私は他者を支える椅子なのだということだ。課題に直面した他者を支える時,私は椅子でいる。他者を完全に支える,他者に成り代わるのでなく「その人がその人自身を支えること」を支える。(椅子のアナロジー)
  • 「椅子のアナロジー」が注意を促すまでもなく,私は他者に成り代わることができない。私は他者の体ではあれない。もし私があなたの体に宿っていたら*1,私は私ではなくあなただろう*2。私は,私の体は,例えば排泄や,食物の嚥下消化を,あなたの体に代わって行うことができない。私があなたの「代わりに」見たり,嗅いだり,味わったり,触ったりしたとして,それらの感覚を得るのは私自身であり,あなたではない。私があなたの「代わりに」あなたの課題に取り組み答えを述べたとして,過程を知らないあなたにとって私の答えはただの記号や音声に過ぎない*3。私が他者に成り代わることができない以上,その人はその人の課題にその人自身で取り組まざるを得ない。
  • それでも私が「椅子のアナロジー」で自らに注意を促すのは,「共感」と呼ばれるはたらきが起こる=他者の課題を私が自身の課題だと思い込み,他者の課題を私の課題として解決を試みる結果,私が苦痛を得ることを避けたいからだ。
  • 前述の通り他者は私ではない。目の前にいる他者の課題を私が理解せんとするとき,ことばと身体所作=広義の言語とが主用される。他者の用いる言語を私も用いることが可能だが,しかし私が他者と全く同じ言語を用いたからといって,他者の用いる言語に対応する他者の身体状態を完全に再現できるとは限らない。特にいわゆる精神疾患や個々人の特性に対応する言語を再現することは難しいだろうと思う(私にも特性があるだろうし)。言語の伴うこの「再現性のなさ」のもとで,言語を通じた他者理解は完全にならない。不完全な他者理解のもとでまず私は他者の課題を私自身のうちに再現することができず,ゆえに他者の課題に対する私の解答の完全を私は実感しない。私が他者を支えようとするとき,私が他者に解答を与えたことそれ自体による私への報酬は少ない。
  • 報酬が少ないことに時間とエネルギーとをかけることは虚しい。けれども私は決して不完全な他者理解のもと不完全な解答を与えることなどしたくはない,他者が発する音声に対し即反射的に音声を返すことなどしたくはない。他者理解の試みの報酬の少なさと,他者理解における私の完璧主義とを眺めて,私は報酬の多さを選ぶ,つまり報酬の少ないことには時間とエネルギーとをかけない。そのためには,私は他者を理解し他者を救おうとし始めないことに注意する。
  • まず「他者はその人自身が第一に支えるものであり,同様にして私は私を第一に支えるのだ」と思う。そして次に「私が他者を支えるとき,私は他者を私自身の次に支えるのだ」と思う。そして「私が他者を支えるとき,私は他者をその人自身の次に支えるのだ」と思う。私は第一に私を支え,次に他者を支え,私が他者を支える程度がその人自身を超えないようにする。

*1:それを指示する単語としては魂でも意識でもよい?

*2:私はここでシャム双生児を思い浮かべるが,結合双生児は脳が2つで,それぞれの脳に対応するそれぞれの体が結合しているのだ。しかし共有する部位(足など)を操るのはどちらなのか?また脳を共有する結合双生児もいるという。この時2つの脳が結合しているのか?1つの脳を共有しているのか?

*3:ここであたかもあなた自身が考えたかのように答えに至る道筋を示すのがソクラテスの産婆術であろうか。