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WORDS

-それ以外に抽象しようのない-

走り書き。自明=無矛盾(事実,行動),整合(意味),天才,科学,

 事実*1は矛盾しないし,間違っていることはない。事実としての行動もまた,矛盾しない。行動は矛盾せず,我々はある行動をしている間矛盾せずにいられる。このとき我々がただ行動することにのみ注意を払い,「理解」,すなわち意味づけを行わないでいるとき,その行動は自明である。自明であって,疑われることがない。

 自明な行動の何たるかは,個人の身体に依存する。個人の備える特性である。ある人にとっての自明は,また別の人にとっては自明でないこともある。また行動の自明は,器用さ不器用さにも関わっており,ある人にとってある物事の自明はまた,その人のその物事についての器用さでもある。

 科学は,自明を避けつつ正しさを追求するさいに,絶妙な自明の範囲と絶妙な非自明の範囲を備える人々の営みであると思う。哲学は,絶妙さを失った人のものかもしれない。

 ある分野で天才と呼ばれる人は,他の人間が長時間学ぼうとしても学べないことを身につける。天才はその分野を学んで開くのではなくて,天才の特性に応じてその分野が開かれる。学習に関しては,言語によって我々の脳内の経験が「削ぎ落とされざるを得ない」ということが関わる。言語は,経験そのものではないのだから。

 建設的な懐疑は,絶妙に自明と非自明との間を往復する。

 自明な道具を用いて目的を達成している人は,道具の仕組みを理解したり,道具を疑ったりしない。道具を扱うことが不器用な人は時々哲学をする。その原動力は,ときに道具の扱いの不器用さが無矛盾な事実であるにもかかわらず,道具を使える者を善し,使えない者を悪しとする直線的な点数化への抵抗であるのかもしれない,という説明を与えてみる。ここにも学習における言語との関係が,言語への忠実さとの関係がある。

 言語へ忠実なものは時々世界を観察することを忘れるけれども,世界を観察しすぎる者は言語が世界そのものではないことから言語を通じた世界理解を苦手とする。そう言った意味で,世界の観察としての実験と世界の言語的理解としての数学とを往復する物理学は絶妙であるとも思う。

 

  • 事実は矛盾しない。起こったことは起こったままに起こったのだ。物理現象は矛盾しない。
  • また「矛盾するものは,事実ではない」とも言おう。
  • あなたが走ったとして,あなたは走ったのだろう。あなたが手を振り回し,指先をくねらせたとして,あなたは手を振り回し,指先をくねらせたのだろう。りんごが落ちたとして,りんごが落ちたのだ。りんごが潰れたとして,りんごは潰れたのだ。私が「りんごはみかんである」と書いたとして,私は「りんごはみかんである」と書いたのだ。「りんごはみかんである」という文字列があるのだ。もっと物質的に還元した説明もできよう。
  • 「りんごはみかんである」と,私は記述することや発言することができる。例えあの赤いりんごが黄色いみかんではなくとも,「りんごはみかんである」という文字はあなたの目の前にあるではないか。「りんごはみかんである」という音声があなたの口から飛び出すではないか。
  • 矛盾のない事実,矛盾のない行動,矛盾のない物理現象。矛盾がないゆえに自明,矛盾がないゆえに無意味。規範・規則・法則を形成しない子供にとっての認識は「何もかも自明」であるように思う。
  • 私の脳が何もかも自明として認識するとき,私は,矛盾や困難といった障壁を乗り越え,パズルのピースがカチッとはまる体験を,「理解」を,しない。整合の体験をしない。
  • 私が何もかもが自明であるとは認識しないとき,私の脳は「理解」が済んだものを「自明」のリストへ加えていく。「自明」のリストに加わったものについて,私は疑うことをしない。また「自明」のリストに加わったものの多くに共通するのが,「Xが自明である」とはすなわち「私はXをいかに扱うか,その手続きを知っている」を意味するということだ。こうして「自明」と「行動の無矛盾」とが結ばれる。
  • 無矛盾な行動をし続け,一切の意味づけをしない状態は報酬を与えない。また絶望もさせないかもしれないが。

*1:私たちが脳を通して「事実」を見る以上,脳に与えられた刺激次第では我々の「事実」が真の事実であるという保証はないのだという考え方について,まず脳の認識が偽の事実と真の事実とを区別できないとしたら,その脳にとって事実に真偽は存在しせずただ事実のみがあろう。しかしその脳を他者から見れば,脳にとって「自分の目の前で起こっている」ことが他者の目の前では起こっていないということがあり得る。そういう意味で「脳が偽の事実を見ている」と言っても構わないかもしれない。しかし「偽の事実を見ている脳」を観察している者たちの脳もまた,偽の事実を見ているかもしれないのであって,やはりどの脳に取っても事実のみがある。ところでここで我々が見たのは脳のみに注目した議論だけれども,実際には脳と脳以外の身体部位との連動は,世界の解像度,「リアルさ」,を高く保つとき重要ではないだろうか?