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WORDS

-それ以外に抽象しようのない-

物理学について私が考え伝えたいこと

 高校生を相手にしたアルバイト用に作成した資料より抜粋。3日間程度で作成。文章の丁寧さに欠け,また章・節番号の振り方を検討する必要がある。

 

 

 

2.1 「数学的論証」と「実験的検証」の二本柱

 私は「数学的論証」と「実験的検証」とが,物理学を支える二本柱であると考えています。これらは,物理学を,自然科学以外の神話や思想や宗教と区別するものであると思われます。またこの二本柱は,自然科学の中でも特に物理学において顕著な特徴であるとも思われます。

 2.1.1 “真理”=「客観的事実」「普遍的事実」

 さて物理学はいわゆる真理を追究する学問であるという紹介を「1 序」にて考えました。ここで「真理」という表現を別の表現に置き換えましょう。別の表現とは,「客観的事実」あるいは「普遍的事実」です。つまり物理学が「客観的・普遍的事実を追究する」ということです。
 それでは「客観的」「普遍的」とはどういうことなのでしょうか?その意味として次の2つを挙げます:

いつでも,どこでも,成立するような事実
誰にとっても確認と理解の可能な(共有可能な根拠を持つ)事実

 例えば①について,「人間はエスカレーターの左側に立つ」というのは東京都内ではほとんど事実かもしれませんが,大阪や,複数の外国では成立しない事実です。それとは異なり,万有引力の法則「2つの質量の間には,2つの質量の大きさの積に比例し,2つの質量間の距離の2乗の逆に比例する力がはたらく」という事実は,時間と場所を問わずに成立するという意味で普遍的なものです。物理学は,このように,いつでも,どこでも成立する法則を確立することを目標とします。
 また②について,誰かが何らかの主張をした場合,それはなぜ正しいのか?ということを考えましょう。例えば「直角三角形の斜辺の長さの2乗は,他の2辺それぞれの2乗の,和に等しい」という三平方の定理があります。この法則はなぜ正しいのでしょうか?ここでもしあなたがその理由を「教科書に載っているから」と述べたのなら,あなたは社会的に正しいとされる知識をそのまま受け入れて正しいとしているだけで,決してその定理の正しさそのものを説明したわけではないということになります。しかしもしここであなたがこの定理の正しさを,”誰にでも”わかるように説明したとしたなら,あなたは,共有可能な根拠を持つ事実を説明していることになるでしょう。

 2.1.2 「数学的論証」

 さて物理学の二本柱の1つ,「数学的論証」についてです。数学的論証とはその名の通り,何らかの主張を数学的に論証することです。例えば力学における1質点の等加速度運動において「力学的エネルギーすなわちポテンシャルエネルギーと力学的エネルギーとの和が,時間的に保存する」という主張は,この質点の運動方程式さえ書き下すことができたならば,微積分の計算規則を用いて証明することが可能です。つまりこの時エネルギー保存則は1つの数学的命題として,運動方程式という数学的命題から演繹されているのです。したがって数学的命題としてのエネルギー保存則は,数学的命題としての運動方程式が正しく,微積分の計算規則が正しい限り,正しいのです。
 こうして物理学の法則は,全て数学的命題として扱われます。そして,1つの物理学理論の中においてあらゆる法則は,「基本原理」「基本法則」「基礎方程式」などと呼ばれる数個の主張から,全て数学的な計算によって証明されるのです。例えばNewton(ニュートン)力学においては3つの基本法則,すなわち「慣性の法則」「運動方程式」「作用・反作用の法則」から,他の全ての法則,例えば「エネルギー保存則」「運動量保存則」「角運動量保存則」等の法則から,「なぜ地球は,金星は,火星は,木星は,…,いつどの場所にいるのか」といった観測事実の説明までも,数学的に導出されるのです。あるいは,「大砲の弾をより遠くへ飛ばすにはどの角度で放出すればよいか」といった問題への解決策も与えられるでしょう。

 2.1.3 数学的論証は「演繹」である

 さて,物理学の法則は全て数学的命題として表現され,全て数個の「基本法則」のみから計算によって導出されるということを述べました。ここで物理法則が確固たるものであるために必要なのが,まず第一に数学的な計算規則の正しさであり,そして第二に基本法則の正しさです。つまりある物理法則が数学的に証明されたということは,正しい基本法則から,正しい計算によってその法則から導かれたということです。
 このように「出発点である法則が正しく,途中の計算過程さえ正しければ,導かれる結論は必ず正しい」というかたちの証明・論証・理由付け・根拠付けの形式を「演繹(的推論)」と言います。例えばNewton力学の場合,基本法則である運動の3法則が正しく,それら3つの法則から正しく計算をしさえすれば,「エネルギー保存則」「運動量保存則」等々の諸法則は全て正しいものとして証明されたということになります。
 ある理論体系の中に数多ある諸物理法則は,数個の基本法則の正しさと,導出過程の計算手順の正しさとが確実であったならば,演繹の正しさによってその正しさを保証されるのです。

 2.1.4 演繹の例

 ここで演繹の例を示しましょう。もっとも有名な演繹的推論の例は「ソクラテスは死ぬ」と呼ばれる三段論法です。この三段論法は次のようなものです:
前提A 全ての人間は死ぬ。
前提B ソクラテスは人間である。
結論C ゆえにソクラテスは死ぬ。
もしもあなたが前提AとBを認めるのであれば,前提Cも認めざるを得ません。このように,ある前提を正しいと認めたときに必ず正しい結論を導かれるということも演繹的推論の1側面です。
 同様にして物理学においては,例えば次のような推論が成立します。
前提A’ すべての物体に生じる加速度の大きさは,その物体固有の質量の逆,その物体にはたらく力,それぞれに比例する(運動方程式
前提B’ 私は物体である
前提C’ ゆえに,私に生じる加速度の大きさは,私の質量の逆,私にはたらく力,それぞれに比例する(私の運動方程式
 なおNewton力学でいう「物体」とは,特に大きさ(あるいは空間内の位置)・質量・電荷という性質を備えたものであり,ここで「物体」という言葉の意味は,そのような性質を持つもの,あるいは運動方程式において登場する性質を持つものとして非明示的に定義されるのです。あるいは,そのような意味を持つものを「物体」と呼び,また「物体」としてみなすことが,暗黙のうちに要求されているのです。
 このような「物体」の例や,「波」など,物理学においては明示的に定義されていないけれど,日常的な用法からは少しだけ離れているがしかし決して遠くもない意味を持った単語が登場します。
 もしも最初の三段論法の例で何かツッコミを入れるとしたら,前提Bに対し,「ソクラテスは果たして人間なのでしょうか?」という指摘ができないこともないでしょう。おそらく「ソクラテスが人間である」とか「私が人間である」ということに対してツッコミを入れる人はいないでしょうが,しかし「人間とは何ですか」といった問いがなされた場合に人間というものを明示的に定義できるのかどうか,これは難しいい問題です。「何が人間か」はわかりやすいですが,「人間とは何か」はわかりにくい問題だということです。さらに筆者である私の場合「物体」の例についてそもそも「何が物体か」ということがわからなかったのでした。物理学はこのように,様々な性質を持つ個別のもの,具体的なものに共通する性質を見つけて適切な抽象化を行い,物理学において扱いやすい性質を持った「物体」概念を持つことを要求するのです。例えば,人間でも,鉛筆でも,消しゴムでも,スマホでも,草でも,水でも,空気でも,全て物体なのです。そのような意味で,物理学は本質的に「全ての対象」「全ての物質」を対象とする,普遍性への志向が強い学問なのでしょう。あるいは物理学は,全ては物質であり物質的に説明が可能であるとする唯物論的な考え方を根底に抱いているのです(後述)。


2.2 演繹的推論へのツッコミと応答

 2.2.1 演繹的推論へのツッコミ①

 さて物理学を特徴づけるものとして数学的論証あるいは演繹的推論を挙げたところで,その限界についてツッコミを入れましょう。まず演繹的推論には,決して論理的証明の不可能な「公理」が存在するということです。数学的には「公理」「公準」,物理学的には「基本原理」「基本法則」「基礎方程式」と呼ばれます。物理学でいうあらゆる諸法則が「なぜ」正しいのかということは,基本法則から導出されます。あるいは数学でいう定理が「なぜ」正しいのかということは,公理から導出されます。しかし,「基本法則」あるいは「公理」を導出することはできないのです。ここに演繹的推論の限界が現れます。
 別の言い方をしましょう。ある主張をするとき,その主張がなぜ正しいのかと問われたらあなたはその根拠を説明するかもしれません。「Sなのは,S’だからである」と。ではなぜS’なのか,と問われたらあなたは「SなのはS’だからであり,S’なのはS’’だからである」と。この繰り返しをどこまでも遡ったところで,終わりはないかもしれません。あるいは,それ以上根拠を遡りようのない究極的な根拠に到達するかもしれません。それが「公理」「基本法則」なのです。
 さて,いずれにせよ,「公理」は論証のしようがないものであり,論証のしようがないからこそ「公理」なのです。しかし公理は,主張たる諸定理が正しいことの根拠となる一方で,それ自体も主張です。主張でありながら論証による根拠付けのできない公理の正しさとは,どのように保証されるのでしょうか?

 2.2.2 注:演繹的体系における「公理」「基本法則」の設定について

 物理学の原型であるNewton力学が規範とし,演繹的論証体系の先駆であるΕυκλειδες(エウクレイデス,ユークリッド)の幾何学においては,何を「公理」に設定するかという尺度には「論証のしようがない」という「自明性」が強くはたらいています。しかし現代的な数学や物理学においては必ずしも公理や基本法則が「自明」であるとは限らず,あくまで「その理論的体系の中で,より多くの定理あるいは法則を説明するのに必要十分な数」だけ公理が存在する,というように公理が設定されています。数学においては「何を公理とみなすか」には恣意性があります。しかし物理学においては,「いつでも,どこでも」成立することこそが基本法則の確立のさいに目指されます。
 

 2.2.3 演繹的推論へのツッコミ②:帰納

 さて先ほど私は,数学的論証あるいは演繹的推論を確固たるものとして紹介しましたが,2.1.3において行ったツッコミの他に,また別のツッコミを行いましょう。それは,物理法則が「帰納」されるものであるということに依拠したツッコミです。
 演繹的推論というのは,あくまで推論です。2.1.3で示した例の場合,もしもソクラテスが死ななかったとしたら,「すべての人間が死ぬ」という前提から覆されるのです。また,もしも私だけ運動方程式に従わなかったとしたら,「すべての物体が〜」という運動方程式が覆されるのです。
 数学的な計算規則や定義は,人間の直感や納得に基づいて「自然」に定められることも多いですが,しかしある程度の恣意性,人間側の自由があります。しかし物理法則は人間が定めることのできないものです。ある人の言葉を借りるとすれば「我々は自然を騙しおおすことはできない」のです。物理法則は我々が勝手に定めるものではなく,我々が観察と実験に基づいて気づくものです。したがってもし1万回の実験の結果1万人の人間が死んだとして「すべての人間が死ぬ」と「帰納」したとしても,仮に1万1回目の実験で1万1人目の被験者が死ななかったら,「すべての人間が死ぬ」という法則は否定されうるのです(もしも,「人間」と「死」との定義を不変に保ったなら)。類推して,運動方程式もまた,その例外が見つかったなら,否定されうるのです。

 2.2.4 ツッコミ①への応答:実験的検証

 さて2.1.6で私たちは帰納というものに触れました。帰納というものは,実験による検証に関係があります。公理は,数学的な論証はできません。しかし,実験による検証であればどうでしょうか?論理的に導出することのできないものは,実験的に検証を行うことにすればよいのではないか,ということです。
 例えば,Ευκλειδεςの著したΣτοικεια(ストイケイア,『原論』)における公準(公理)を見てみましょう。Στοικειαにおいては,以下の5つが,「公準」,つまり論証の不可能な自明の理として仮定されています:
公準1 任意の1点から,他の任意の1点へと,直線を引くこと
公準2 有限の直線を連続的にまっすぐ延長すること
公準3 任意の中心と任意の半径で,円を描くこと
公準4 すべての直角は互いに等しいこと
公準5 ある直線が2つの直線と交わるとき,同じ側の内角の和が2直角よりも小さい場合,それら2つの直線をそれぞれ限りなく延長すると,内角の和が2直角よりも小さい側のどこかで必ず交わる
これら5つの公準は,演繹的に導出することはできませんが,しかしこれら5つの主張を認めさえすれば,他のあらゆる定理がすべて演繹的に,すなわち確実なのとして論証されるのです。そして,これら5つの正しさの確認は,実際にやってみることにより自明のものとして確認されます。
 なお5つの公準の中では「直線」が,現代日本の公教育の用語の「線分」に相当するものとしてもち入られています。また公準5については,他の公準に比較して複雑であるということから古来より疑問を抱く人々がおり,公準5を外した19世紀に入ってGauss(ガウス)やЛобаче́вский(ロバチェフスキー)らの手による「非ユークリッド幾何学」が誕生します。
 さてΣτοικειαの例から類推し,Newton力学の3つの基本原理についても,数学的導出ではなく実験的検証を行うことによってその正しさを確認できたならばよいということになります。しかしここで,実験的検証に伴って,運動方程式 ma = f に登場する物理量である「質量」「加速度」「力」それぞれの測定の方法と単位の設定の仕方という問題が生じます。簡単に述べると,加速度の定義は簡単なのですが,力を定義するには質量が運動方程式とは独立に定義される必要があり,逆に質量を定義するには力を運動方程式とは独立に定義する必要が生じるにも関わらず,Newton力学の体系の中には運動方程式の他には質量と力を定義する方法がないという問題です。私は素粒子物理学を学んでいないのですが,この問題への1つの解答は,素粒子物理学におけるHiggs粒子の導入であると思います。


2.3 公理を検証し,定理を論証すれば「正しさ」はじゅうぶん確認されるか?

 2.3.1 「公理の実験的検証と,公理からの定理の導出・論証」という方法の吟味

 さて仮に,物理学において,基本原理は実験的検証によって「正しい」と確認され,その他の諸物理法則はすべて数学的計算によって演繹的に導出されるとしましょう。このとき,こうして構築された物理法則の理論体系は,「正しい」と言えるのでしょうか?例えば次のような問題が考えられるのです。基本原理を実験的に「正しい」と確認し,誤りのない計算手順で法則を導出したにも関わらず,それら法則が実験的検証によって誤りであると判明する,という問題が。
 ここで1つ前提を確認しておきましょう。それは「物理法則は,必ず実験的に検証されねばならない」ということです。というのも,物理法則は世界について表現している法則,世界の事実について表現した法則ですから。「りんごは紫色である」という文章は,言語的な誤り,文法的な誤りを犯していませんが,しかし決して現実世界に即したものではありません(一般的な意味での「りんご」,一般的な意味での「紫」を用いるならば)。これと同様に,仮に数学的に正しい数式であっても,現実世界に即したものでなければ,それは物理法則たり得ないのです。物理法則においては,数学的な正しさ,広い意味での文法的な正しさ(統語的な正しさ)だけではなく,意味的な正しさも重要となるのです。
 仮に ma = mg という運動方程式が実験的に正しいとして,ここから「正しい」計算手順で導かれた”エネルギー保存則”が仮に 4mv^3 + 9mgh = const. (一定)だったとしたら,我々は,正しい答えを導くはずの計算の手順,計算の規則,つまり数学を見直す必要があるのです。
 こうして結論づけられるのは,物理法則の体系を導出するにあたって我々は,基本原理から導かれる諸法則がすべて正しいような数学を適切に見つけたり作ったりする必要があるということです。

 2.3.2 物理学の二本柱の再確認

 2.1において私は物理学が「実験的検証」と「数学的論証」の二本柱に依るということを述べました。しかし2.1.8までで確認されたのは,物理学という営みは,必ずしも「正しさを示すこと」「根拠付けをすること」だけをするのではないということです。正しさを示すことのできる適切な道具としての数学を作ったり見つけたりする必要があります。そして数学だけを知っていて物理ができるわけでもなく,世界をよく観察し,また論文に表される他者の実験結果をよく摂取し,「現実」「事実」に即した数学を構築・適用することが必要となるのです。


2.4 知識の社会性

 2.4.1 知識の社会性

 物理学は,実験的検証によって事実に即した主張を確立するのだということを,ここまでで確認しました。皆さんは,ある主張が「正しい」かどうか確かめるのに,実験してみるということは,至極当然のことだと思うでしょうか?なおここでいう「正しい」とは,再現性・客観性のある(定量的な)実験によって確認できる言説についての「正しさ」であり,法律の妥当性や,倫理道徳的な善さの追求についての「正しさ」は別種であるとします。
 ここで「言説や主張を実験によって検証するのは当たり前のことだ」と思う人は,果たして,高校の物理の教科書に書いてる法則を,逐一,自分の手と目を使って検証したでしょうか?もしも「実験的検証を行うべきである」という立場を徹底するのなら,我々は,これまで先人が物理法則の確認のために行ってきた実験を逐一全て検証する必要が生じます。それも,自分の目と手と頭を使ってです。しかし,それは2つの点において不合理です。まず第一に,1個人は,金銭的制約や実験設備を整える制約から,理想的な環境での実験を何度も行うことは不可能です。そして第二に,あらゆる実験を全て丁寧に行っていては,1個人の一生をかけても実験を行い切ることはできないでしょう。先人の行った実験そのものを全て追体験することは我々にとって現実的ではなさそうなので,実験物理学者でない我々の多くは実験の結果だけを信頼し,実験結果に整合するような理論を構築したり数式を扱ったり(これは理論物理学者の仕事です),実験結果とそれに基づいて構築された理論に「直観的に」納得したり(これが我々の多くが行う作業です)します。このように,「我々はあらゆる知識の検証を逐一行うことはできそうにないので,人づて(書籍や論文に依拠して)に伝え聞いた知識を信頼する」という意味で,「知識には社会性がある」と言っても良いかもしれません。参考までに「社会構築主義」と「本質主義」という用語を添えておきます。仮に1つの事実を徹底的に検証した物理学者がいても,その人は他の知識を検証はしておらず,かつ徹底的に検証した知識を調べるのに使った知識も社会的に入手したものであるとしたならば,「あらゆる知識は社会的である」と主張する人もいるかもしれません。
 我々はすべての知識について検証し尽くすことはできないので,数式の力を借りて知識がもっともらしいことに納得するという考え方もできるでしょう。そのような意味で,実験と数学とは相補的です。数学には「論証」という意味の他にも,「知識がもっともらしいと思わせる」というような,何か想像力の補完をする役割があるとも思います。
 また我々はすべての知識について検証し尽くすことはできないからこそ,我々は他者に発表するための実験を粗雑に行うことをしてはならず,「決して,自分の見聞きしていないことを事実であるかのように発表してはならない」等の誠実さが要求されます。現代のアカデミアでは,論文において特に「捏造・改竄・剽窃」が「3大研究不正」として厳しく禁じられています。

 2.4.2 「正しさの追求」という1つの立場

 物理学は,実験的検証によって事実に即した主張を確立するのだということは,すでに確認した通りです。このことについて2.1.10において「知識の社会性」という観点から一過言述べましたが,ここでももう一過言述べておきます。
 「我々はあらゆる物理法則を逐一検証し尽くすことはできない」と述べましたし,実際,あらゆる厳密な定量的実験をしたことのある人がいるとは思いません。さらに1つ付け加えると,我々は物理法則どころか,あらゆる言説について逐一その真偽を検証していないのではないでしょうか。その理由は,時間的制約や金銭的制約があるかもしれませんが,そもそも,言語を扱ってものを書いたり考えたり会話したりするときに,「検証による正しさを追求しよう」という立場に立っていない人も多くいるのではないでしょうか。あるいは言語を「事実の表現」としては用いない人もいるのではないでしょうか。それらのことが悪いことだと断罪する気はありませんが,しかし「検証による正しさを追求しよう」という立場をとってはいない人々が「検証による立場を追求しよう」という人々を迫害することはあり,それは古くはGiordano BrunoやGalileoに対する宗教裁判の例に見られ,また身近な例では正しさを追求する人が「アスぺ」として仲間内から疎外されることが挙げられるでしょう。宗教や思想の用いる言説には検証の難しいもの,「超自然的な」現象について述べたものが多くありますし,また身近な会話の中でも「適当な」「曖昧な」発言はありますが,それらは必ずしも「事実を追求する」という文脈の中でなされたものだというわけでもなく(科学者だって冗談が好きな人はたくさんいるでしょう),そしてそのことが非難されることだとも思いません。しかしそう言った態度に事実を追求する人が憤ることもあり,逆に事実を追求する人に対しそれ以外の人が面倒を覚えることもあるでしょう。
 

2.5 要素分割,還元主義

 物理学の1つの特徴として,「要素分割」「還元主義」というものの見方の枠組みを紹介します。「要素分割」も「還元主義」も,「できるだけ少ないものからより多くの物事を説明する」という意味で,公理から定理を,あるいは基本原理から諸法則を,論証したり導出したりすることに似ています。
 「要素分割」「還元主義」として身近な例を挙げるとすれば,英語辞典でしょう。単語の数はたくさんありますが,しかし単語を構成する文字の数は,アルファベット26文字のみです。これら26文字さえあれば,すべての単語を構成することが可能です。このように,ある単語全体を,それを構成する要素としての文字の単位に分割することは「要素分割」の例であり,多種多様な単語を,26個のみの有限個の要素から構成しようとすることは「還元主義」の例です(おそらく文字の誕生以前は,あらゆる単語はそれぞれ個別のもので,そこに共通の構成要素があることを明確に意識することは難しかったのではないでしょうか?)。
 「要素分割」の考え方は,DecartesがΕυκλειδεςの幾何学の,演繹的な論証体系を参考にして明確に著しました。「分析・明晰・総合・枚挙」の「分析」,つまり「困難は分割せよ」の部分です。そして物理学においては,大きさのある物体を”大きさのない”点の集合体へと分割(分析)し,点が従う運動の法則を調べ(明晰)たうえで点の集合としての全体の運動を記述(総合)します。あるいは,物体の運動を,xyzの3方向へと分割したことも「要素分割」の例であると思います。
 また別の例として「速さ」を挙げましょう。我々が「ビューン」「ノロノロ」といった「感じ」で,視覚によって知覚している物体の「速さ」を,①位置(空間) ②時刻(時間) ③微分の計算規則という3つの明晰な要素に還元することが,物理学において成されています。ここでいう還元主義は,誰にとっても明確で測定可能な(普遍的・客観的な)要素を用いることによって,我々の知覚を定量的に比較可能なものとして表現するものです(このように物理量を基本物理量へと還元することについては別の文章で触れているので,参考としてください)。しかし,ある物体を時間追跡して位置を測定してt-xグラフを描き,グラフの傾きからその物体の速度を数値として求めたとき,それは本来空間でないものを空間化・幾何学化しているのではないかという違和感,要素を統合したところで我々の知覚する「ビューン」等の速さの「感じ」そのものを復元できているわけではないという違和感を感じる人もおり,その例として著名なのはMerleau-Pontyなのではないでしょうか。また詩人GoetheはNewtonが光を幾何学的に扱ったことへの違和感の表明として『色彩論』を記したのではないでしょうか。
 なおNewton力学においては速さや加速度,力といった,長さ(位置)とは異なる量も,ベクトルのおかげであたかも長さと同じであるかのように扱うことができます。ただしそれはEinsteinの特殊相対論においては不可能であり,Newtonにおけるベクトルは「3元ベクトル」とされ,Einsteinにおいては「4元ベクトル」として速度や加速度を扱います。詳しくは大学で学ぶか,各々書籍で調べてみてください。
 いずれにせよ還元主義的発想は,知識を整理し扱いやすくする手段として便利なこともあると思いますから,参考としてください。


2.6 「例外」の発見と理論の再構築

 2.6.1 「例外」の発見と法則の修正

 あなたが「りんごは赤い」という法則を確立していたとして,緑色の”りんご”という「例外」を見つけたとします。この時あなたはこの”りんご”をりんごと別のものとは見なさずに「りんごには赤いものもあれば,緑色のものもある」と法則を修正するでしょう。赤いりんごと緑色の”りんご”とでは形や味,香りといった性質は似ていますから,「りんご」という大きな枠組をできるだけ変えずに,色という性質のみの違いに注目して,法則を書き換えるのです。
 これと似たことが,物理学の世界でも起こります。例えば質点が一様重力場の元運動している時,ma = mgという運動方程式を確立したとします。それまで一様重力場内の質点の運動はすべてこの方程式に従っていたのに,もしもこの方程式に従わない運動,すなわち「例外」が見つかったとしましょう。そのとき科学者の考えることは,運動方程式という大きな枠組みの見直しではなく,「重力以外の力がはたらいているのだ」という,数式の上では小さな修正です。というのも,例えば速度の1乗に比例する抵抗力を付け加えるだけなら,右辺に -kv とう項を足すだけで済みますから(もしかしたら計算は面倒になるかもしれませんが,方程式を解くということは数学の問題であり科学の問題ではないかもしれません)。
 が,というよりもむしろ,りんごと,りんごっぽいけどどこか違う”りんご”が見つかった時に,赤や緑といった性質が見出されるのかもしれません。

 2.6.2 定量的実験の限界:帰納と不確かさ

 さて物理学はできるだけ大きな枠組みを保ったまま,例外が見つかっても小さな修正で済ませよう,つまり大きな枠組みの中での説明を考えようとします。が,そのような小さな修正では不足だったのが,Newton力学において運動方程式に「Galilei普遍性」を要求した時の光速度の座標系依存性と,Maxwell電磁気学に置いてMaxwell方程式を解いた時の電磁波=光の速度が座標系に依存しない普遍性との間の,矛盾の解消です。ここでEinsteinによる特殊相対論が登場しますが,ここではその説明は省略します。
 Newtonの運動方程式は物体の運動速度が光速度に比べて非常に小さい場合に実験によく一致しますが,速度が光に近づくと実は成り立たないのではないかということがEinsteinの特殊相対論によって示され。そして実験的に検証されます。ここに,実験の帰納的性格が伴う限界や,測定の不確かさの問題が現れます。
 実験の帰納的性格とはつまり,ある法則をあらゆる数値について検証することはできず,仮にこれまでの測定で正しいと検証された法則でも,まだ測ったことのない数値においては正しくないかもしれない,という問題です。簡単に述べれば,あなたがこれまで目にした1万個のりんごは赤いけれど,1万1個目のりんごは赤くないかもしれないということです。
 測定の不確かさとはすなわち,測定機器は「真の値」を測ることはできず,限界を持つということです。例えば1mm刻みの物差しで髪の毛の長さを測ることは難しいでしょう。