ある事柄についての「理解」の再現困難

ある事柄についての「理解」の再現困難

 

一つの思想の真の生命は,思想がまさに言葉になろうとする地点に達するまで持続するにすぎない。その地点で思想は石と化し,その後は生命を失う。だが化石した太古の動植物のようにその思想は荒廃を免れる。我々は思想のつかのまの生命を,まさに結晶せんとする瞬間の結晶体の生命に比することができる。

 すなわち我々の思想が言葉を発見すると,その瞬間にただちに思想は真剣さを失い,真の厳粛さを欠く。我々の思索が他人のために存在しはじめる時,我々の中で得ていた生命を喪失する。

           ー A.ショウペンハウエル『読書について 他二篇』

                (1960年,岩波文庫,斎藤忍随訳) から

             「著作と文体」4より  

 

 哲学の問題の解決は、メルヒェンに登場する贈り物のようだ。それは魔法の城の中では素晴らしいモノに見えるのに、白日の下で見るとありふれたガラクタのように見える。

                                    ー L.Wittgenstein bot(@wit_bot*1より

 

"We cannot solve our problems using the same kind of thinking we used when we created them."
                                                                   ー Albert Einsteinによるとされる*2

 

  1. 理解の再現困難

     「あるものごとを理解する」という体験を再びすること,反復して体験することの困難について語りたい。
     私が大学入学後から4年間こだわってきたのは「科学,特に物理学をよく知りたい」ということであり,「物理学について1つ新しく理解したと思うたびにその体験を言語化して伝える」ということだ。このこだわりを駆動するのは「高校や予備校で経験した物理の説明から私にもたらされる理解の経験があまりに少なく,私が個人で,一般的に入手可能な物理の説明の文脈を追い行間を埋める作業をせねばならない」という使命感だった。「教科書に記された説明は,数学を用いた説明と実験的データを通じ,世界の中での再現性のある現象に関する主張/物語/説明を人類が共有し検証可能性を持たせている」,そのような意味で物理学には「普遍性がある」と言えるかもしれない。けれど人類誰しもがそれら主張/物語/説明を思いつく/それらを創造する霊感を授かる/インスピレーションを受けるとは限らない*3。むしろ大半の人はそのような経験をしない。私が魅力を,神秘を,掘り進めば宝物を取り出せそうな可能性を感じたのは,明確なアイデアそのものよりも,アイデアが実る土壌としての,物理学者の世界認識,あるいは思考法だった。それらを理解し身につけることがアイデアの理解をもたらすと思っていた。
     以上のモチベーションに駆動されて私は,物理学の教科書に記された数式とその解釈を私の表現で説明する作業を蓄積していった。力学,電磁気学解析力学,相対論,量子論,……。構築された物理学理論それ自体を理解すると同時にまた,その構築に至る考え方,科学者の世界認識を見出そうと努め,最終的に抽出されたのは例えば,数学的論証と演繹,実験的検証と帰納,物理法則の普遍性(自然の斉一性),唯物論や物質どうしの相互作用による世界の因果的説明の物語体系構築である。これら私が見出したものの命名に用いられている言葉遣いは仮に過去の先人のものであったとしても,私は私自身の文脈においてそれらの価値を確認するに至ったのだという自負がある。
     
     すでに本題へと半ば入りつつある。「私自身の文脈においてそれらの価値を確認するに至」るということ。あることがらを理解する過程で感じた価値/意味/意義,それらの再現や共有の困難について語りたかった。
     
     私が私自身で価値を確認しながら抽出してきた,主に物理学を構築してきた人々の持っていたであろう世界観/認識の枠組み/思考法。それらについて記録を残すことの重要性を私は確信し,実践を始めようとした。そうしようとした理由はなぜなら「説明は他者ありきであると思った」,「言語は人間の見聞きするものであるとして私の紡いだ言語の網の目に行き場を与えてやりたかった」という他者依存的理由もある。が,それ以上に,私が見出したものごとが初めて見出された際の私の新鮮な身体の状態を,それについて考えるたびに忠実に再現することに限界を感じたからだ。私が見出した1つ1つのものごとについて,見出されたまさにその瞬間の身体の状態,「文脈」を忠実に再現し,その「文脈」において語る,ということの難しさを感じたからだ。文脈の中で見出されたものごとを礎にしてその上にまた別のものごとを見出す,それをn回繰り返して見出されたものごとを,真にそのまま語るためには,それを語るたびにn回の繰り返しを逐一行わなければならない。さらには語るべきものごともどんどん増えていく。こうして私の身体に属する脳のメモリは限界を迎えたらしく,私の身体の外部へと紙やPCを使ってメモリが延長されることとなった。
     外部メモリの使用に際し,私が悲しかったこと。それは見出した瞬間は多量の報酬を感じさせたものごとについて語る言葉が,かつてほどの満足をもたらさないということだった。私がそれを見出した瞬間の身体の状態に対応させた言語。しかし言語は身体の状態そのものではないがゆえに脱落するものは多量で,逆方向の矢印は成立しない。すなわち,言語がそれに対応する身体の状態を再現するとは全く限らないのだ。
     理解したことを私は言葉にするが,言葉が理解の体験を再現するかというとそうではない。けれども残さざるを得ない。

     理解を言語によって説明することの限界。理解したことを理解に至らしめる動機や目的から切り離し取り出してきて説明しても理解そのものの体験や理解の価値の実感をさせることは困難である。その理由は体験が言語へと変換される過程で多くが脱落しているがゆえである。そこで理解を説明するのではなく,より根本的に,理解が価値を持つ身体状態へと個人を至らしめること,理解を欲する動機を持たせること,文脈の中に人間を追い込むことができるかというと,それもまた「天から降ってくるもの」であるように思う。
     この限界は,他者の理解を追体験する際に現れるものでもあるし,また自己の過去の理解についてすら現れるものでもある。「問題をそれが作られた時とまさに同じ考え方で解くのは難しい」のだ。ある文脈において,ある身体状態において暗い問題へと落ち込んでいる時にはあれほど煌いて見えた解決の光も,問題の穴から抜け出して見れば輝かしさを損なう。



  2. ハシゴの比喩

     理解の再現困難について2つ比喩がある。第1の比喩は,その難しさをハシゴに例える。そのハシゴの段は一部外されている。理解をするということはそのハシゴを登っていき解決に至るということに例えられる。解答への到達を確信したあなたはその道のりを説明するためにハシゴを描写しようとするのだが,しかし登っている途中は堅固にかけられていた段が,登りきった後に振り返ると外されている。こうしてあなたは,「分からない」という状態に戻ることもできないし,「分からない」から「分かる」へと至る途中経過を描写することも能わない。ただあなたは,分かっているということだけを分かっている。
     


  3. 戻れない橋の比喩
     
     理解の再現困難についての第2の比喩においては,河岸にかかった一方通行の橋を引き合いに出す。あなたは理解の過程で「分からない」の岸から「分かる」の岸へと,橋を渡る。「こちら側」にやってきたあなたは言葉を尽くしてまだ「あちら側」にいる人々へと理解の仕方を説明するのだけれども,すでに橋は流されていて,あちら側にいる人々はこちら側へと渡ってくることはできない。そしてもちろんあなたもあちら側へと戻ることはできない。
     人々が理解に関するあなたによる説明を聞き,あなたと共に理解の橋を渡ることができるのは,あなたが理解の橋を渡り始めてからこちら側の岸に重心を載せ橋から足の裏を離すその瞬間までで,それ以後は理解の橋は消えてしまう。理解の橋を渡りきらなければあなたはこちら側とあちら側を行き来することができるが,しかしあちら側へ渡りきってさらに向こう側へと進むことは難しい。



  4. 天才と語り

    「天才は説明が下手」という言説を目にすることもある。1〜3を踏まえてその理由としたい。「こちら側」へと渡りきったものは,「分からない」状態に戻れないから,「分からない」から「分かる」への行き方が分からないのだ。
     


  5. 行動を促す指針としての理解

     理解の1側面として「行動の指針を示す」というものを挙げる。理解するということは何をなすべきかの明確な把握である。何をなすべきかがわかるということは行動がとれるということである。例えばある問題設定のもとでいかなる式を書き下せば良いのかわかるということ。問題設定への反射として回答としての行動をなす,そのやり方がわかるということ。
     問題に対してはっきりとした行動の取り方が定着するとき,問題を見ても「分からない」という状態を再現することは難しい。行動の取り方が明確に規定されたとき,行動は言語ではないから,言語による伝達の限界がここにまた現れる。


*1:このTwitterアカウントは,L.ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』を部分的に切り出してきてツイートしているそうだ。私は『反哲学的断章』を読んだことはない。

*2:Einsteinによる発言として流布しているが,Wikiquoteにおいては"Disputed"とされている。Albert Einstein - Wikiquote この発言にはSchopenhauerの発言との共通点を感じるが,Einsteinは著作中でSchopenhauerを引用することもあったらしい。

*3:「数学的定理を証明するにあたっては,『なぜそのような証明を思いついたか』は問われない」。これは予備校の講師が言っていたことで,授業中に述べられた諸々の数学的事実よりも記憶に残っている。霊感,ひらめき,インスピレーション,ピコンと頭上に灯る白熱電球。芸術,技術,科学において生まれたアイデアそのものは,人類の多くが理解可能で整然と体系だったものかもしれない。またアイデアが生まれる体験はあくまで我々の身体に起こる物理的・生理的現象であり,科学的な解明の可能性を拒否するものでもない。けれどもいかにしてアイデアが生まれるか,天才が天才たる所以は何か,それを一般的に説明することには困難を覚える。ギリシア神話ではその説明を,アポロンが詩人や音楽家に授ける霊感として擬人的に行っている