表現を通じて観察すること,観察してから表現すること

表現を通じて観察すること,観察してから表現すること

 

 考えてから書く人がいれば,書くために考える人もいる。

 

 

 僕はだいたいのことに興味がないけれど,絵画や映画,物理学にも一時期執着した。

 絵画や文章は,何らかの意味内容を伝えている(ということにしておこう)。リンゴの絵は単なる赤い塗料(と言ってしまった時点で既に「純粋な物質」ではなく用途目的を持ってしまうから,化学物質としての名称を書いた方がいいのかもしれないけれど)の塊ではなく,その赤い塗料の塊を見ると僕らは「リンゴ(の絵)だ」と分かる。リンゴの絵を見て,本物のリンゴを描いたものだと分かる。あなたが今目にしている文章も単なる黒い引っかき傷ではなく,「あなたが今目にしている文章も,単なる黒い引っかき傷ではない」ということを伝えている。

 このように文章や絵は,意味内容を伝達する記号なのだ(ということにしておこう)。記号は意味と対応づけられて,意味を伝達する。「リンゴ」という黒い引っかき傷は,本物の,あの赤い(というと緑のリンゴに失礼だが)リンゴと対応づけられて,本物のリンゴという意味内容を伝達する。記号と意味内容とがあらゆる場合において全く独立とは思わないけれど,「リンゴ」「apple」「pomme」のように独立とみなして良さそうな例がある(リンゴもappleもpommeも,単独で使用された場合に全く同じ意味を持っているなら)。

 

 本題に入りたいのだけれど,僕はそう言った記号を通じてようやく意味内容に注目する。例として挙げるなら,物理学を通じて初めて物理学の対象に興味を持つ。つまり「物理学」を通じてようやく「物理」に興味を持つ。もしも物理学に触れていなければ、例えば物体の落下について,光の経路について,興味を持つことはなかっただろうと思う。

 似たようなことは,絵画や映画についても言える。例えば絵画,いや図鑑の挿絵でもいい,それらを通じてようやく人体の構成について注目する。ダヴィンチは描くこと自体にも興味があったかもしれないが,描くために見るのではなく,よく観察したものを描いたかもしれない。一方で僕は描くために見るし,描かれたものを見てようやくそれに注目するという傾向のほうが強い。

 

 僕は記号を通じてようやく,記号の伝達する対象に,興味を持つ。僕の興味の対象は興味の目線が直接,純粋に向けられて得られたものではなくて,一度記号を媒介して得られた,間接的なものである。だから僕は記号にも興味を持つ。

 僕の興味が記号を通じて対象に向けられるということは、他者の語りから興味を共有することの困難に寄与している。他者の語りが伝達したい意味内容の共有の努力は,僕の想像力ではなく,ほとんど相手が記号を扱う上手さにかかっている。僕が何かに興味を持つのは他者の語りを通じてで、だから僕は語りにも興味を持つ。

 絵画や映画、言語,そう言った記号は僕がじっくり観察せず通り過ぎてしまうものに僕の注意を向けさせるのだが、本物との差異は僕に「語り方」への注意を向けさせる。

 

 

 僕のこういった性格は天才性のなさ,二流さとして表現され得るもので,ショーペンハウアーによる『思索』『読書について』を読めば示されるだろう。