キューブリックは真顔で冗談めかす

キューブリックは真顔で冗談めかす

 

 何度目かの「シャイニング」鑑賞。演出や雰囲気から一貫してホラーとして作ってあるし,「最高のホラー映画ランキング」常連だが,あたかも「真顔で冗談を言う」かのような,笑いどころ(?)の設け方がしてある。

 例えば映画のポスターやDVDパッケージに使われ文字通りこの作品の「顔」となっているシーンがある。つまり,"Here's a Journey!"の言葉と共にジャック・ニコルソンがドアの裂け目から顔を覗かせる場面のことだ。Twitterなどでいわゆる「コラ画像」として出回っていたことからもわかるように,このシーンを単独で見ればお笑いに近い。けれども一連の恐怖と緊張感の演出という文脈の中で鑑賞されたとき,観客が思うことは「顔を挟むドアをストッキングを履いた脚に変えてやろう」ではなく「早く逃げて!」となる。

 劇中他にも,ニコルソンの死に顔などは「変顔」の部類だし,ニコルソンの妻役の表情にも,どこかおかしげを感じることがある。

 キューブックの挿入する笑いは,単独で取り出すと笑いどころと取れなくもないが,ある文脈の中で見ると笑いをもたらさないことがある。「笑っていいのか,笑ってはいけないのか」と観客が戸惑う。このことに気がつくとき,笑いがいかにして作られるものだろうかという疑問が生じる。

 

 キューブリックは悲劇を喜劇的に描いたり,悲劇も喜劇も無感情的に「眺め」させるようなところがあり,例えば「バリー・リンドン」に登場する公爵がむせこんで卒倒し,死亡するシーンである。あるいはキューブリックは「バリー・リンドン」において,絵画的構図の場面を幾たびも挿入し観客に情景を俯瞰させる。キューブリックは我々を「一歩引かせる」。「バリー・リンドン」は栄光と転落の物語だけれども,どこか興奮や喜びをもたらさないところがあるし,ゆえに転落の「落差」も小さい。主人公は確かに主人公だけれども,観客は主人公の目を通して世界を眺めるのではなく,主人公の動き回る世界を3人称的に眺める。

 喜劇と悲劇の二面性という意味ではコーエン兄弟監督作品を思い出す。また悲劇も喜劇も得意な作家として私はシェイクスピアを連想する。

 

 

 さて「シャイニング」特有の話に戻りたい。

 「いないはずのもの」が見える場面が,妄想や幻覚として説明されるかと言うとそうでもない。ニコルソンが閉じ込められた倉庫の鍵が開く場面では「現実の世界」と「おばけの世界」の境界線が曖昧になる。ただし
・声の主の姿は見えない
・鍵が開く音しかしない
と,直接的でなく,抑えられた描写がされているが。

  もし「おばけの世界」がみんな幻覚で済まされるなら「この事件はスランプの小説家が幻覚を見て管理人としての契約や責任にかこつけDVを発揮した」で片がつくのだが,妻も子供もおばけの世界を見ており、人間側でなく「ホテル側」に狂気をもたらす何かが「実在している?」かのようにも思える。それとは別に子供に超能力的なものが(かなり抑えて)描かれているけれどこちらはほとんど原作の名残り?

  登場人物によって見えるものや度合いの違いがあり、物語の中で狂気の原因の整合的説明はない。個人的特質・性質として「見える人」と「見えない人」がいるのか?それとも「見える」「見えない」に明確な境界線はなく,ある条件のもとで見えたり見えなかったりするのか?「条件」とはホテル側にあるのか人間側にあるのか?やはりニコルソンが見ているものは幻覚か?といった説明はない。

 「シャイニング」では,ただ映画技術として可能な範囲で実現されたものが提示されている。まるでキュビズムの絵画が,決して現実世界に対応はしていないが,絵画としては描けるかのように。数学や言語や絵は,それを以って現実世界の精密な再現を追求することが可能だが,現実世界そのものではないがゆえに現実世界ではありえないことを描写できる。キューブリックがやっているのは,ホラーという基本的には「ありえない」とされているジャンルの範囲内で,絶妙に整合性を持たせるような持たせないような曖昧を持たせることであるようにも思う。

 この辺が「シュール」なんだろうか?