引用SF

引用SF

 

 「ある著者の任意の作文すべてが,その著者の思想である」とは限らない。したがって「著者の思想である」として引用した文章がその著者の思想ではなかった場合,その引用は著者に対する誤った理解・イメージを広げることになりかねない。その事態を防ぐためには慎重な引用が必要である。「慎重な方法」の具体的説明をしたいが,1つの一般的法則を以って説明することが難しく思うので,省略する。

 

 安易な引用の極端な例として,X氏の書いた次の文章を考えよう:

「Y氏は『Aである』と言ったが,この主張は誤りである」

もしもここで「Aである」をX氏の思想として引用した場合,X氏の思想とは真逆のイメージを流布させることになりかねない。そのような事態を避けるためには,ある著者の文章を安易に著者の思想と同一視してしまわないことが必要だ。

 わかりやすい例として,我々は小説の登場人物の発言を,著者の思想とつねに同一視する訳ではない。1つの小説の中に,対立する思想・主張を抱いた2人が登場する場合があろう。

 

 ここからはSFだ。私は「慎重な引用をせよ」と述べたが,慎重な引用を阻むような,極端で過激な書物のことを想像しよう。

 著作は第1巻から第12巻,膨大な思想や主張が記述され,合計ページ数は優に5,000を超える。緻密な論証が補強し,あの手この手を尽くした比喩が読者のイメージを促進する。長い年月をかけある読者がついに最後の1ページに到達し目にした最後の言葉は「という主張があるが,これは誤りである」だった......。このような構想のもと筆者は執筆を開始するが,志半ば,第11巻の中程まで書き進めたところで心臓発作でぽっくり逝ってしまう。筆者の研究仲間や筆者の親族は,「筆者の遺志を継ぐ」として,筆者の膨大な原稿を出版することに決めたのであった。

 例示した書物は,「自分の思想を理解してほしい」と考える人間の仕事ではない。「こういう規範があるが,判例を示してやろう」「こういう考えをする人間を出し抜いてやろう」という批判的思考の人間の仕事であって,この場合ほとんど「慎重な引用をせよ」という規範の限界を提示してやろうという目的のもとでなされた仕事である*1。実際的には,このような極端な例の存在の可能性が否定できず「慎重な引用をせよ」という規範の例外があり得るからといって,その規範をすっかり捨ててしまうということにはならない。「慎重な引用をせよ」という心構えをするということは,数学者的・法学者的な,判例を一切許さない厳密正確な一般的文言への志向の適用がふさわしくない場合なのだ。

 という主張があるが,これは誤りである。

 

 

 

*1:だってもちろん,そのような規範を出し抜く人間の仕事を例示するために想像された例なのだから