読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

WORDS

-それ以外に抽象しようのない-

思索の雫

理解 知的態度 推論

思索の雫

 

 何かを言葉にすることは、蛇口から水滴がしたたることに似ている。水は一瞬のうちには蓄積されず、口から漏れ出るには時間を要する。水が蓄積される速度や蛇口の径長に依存して、粒の大きさや、1つの落下から次の落下までの時間間隔が決まる。これら諸条件のもとで蓄積された水が重力に引かれて蛇口から漏れ出づる瞬間にようやく、思想は言葉として形を得て,外界へと発信される。

 

 

 明晰で有用な言葉が,思索なしに発せられることはない。仮にある入力に対して瞬時に,出力としての発言がなされたとしたら,出力のあり方として幾つかの場合が考えられる。

 

 まず第一に,単なる真似をしている場合。つまり発言が理解を伴わずに行われている場合である。理解を伴わない発言をしている人間は,話し相手が用いた単語・語句・言い回しと頻繁に併用される単語・語句・言い回しをどこかで見知っていて,話し相手が自分の知っている表現を用いたならば即座に,併用されがちな表現を出力しているに過ぎない。ある言い回しと別の言い回しとが,それぞれ何であるか理解していないし,これら2つがなぜ併用されるのか,つまりそれらがどのような関係性にあるのかも知らず,またその関係性は適切であるのかという吟味も行なっていない。

 しかし単なる物真似によって紡がれた文章であっても,長大複雑になれば専門家によってなされたものであるかのような風貌を呈するので,聞き手を騙すこともある。しかし物真似によって発言する人間は,多くのツッコミを入れられるとぼろを出す。というのも,物真似をする人間は,音と音,文字と文字とのつながりを知ってはいるが,音の意味する内容を頭の中でイメージ扱うことができないので,自分の辞書にない音や文字のつながりに対処することができないからだ。

 ただしこのような物真似を通じて,表現の意味する内容をよく観察・理解できることもある。言語の学習の過程には物真似が必要であるという代替表現を用いても良い。したがって,物真似が一切合切悪であると断じ,物真似の使用を禁止することは適切ではない。けれども自らが物真似をしていることの自覚無自覚を問わず,物真似をしているに過ぎない自分が物事を理解しているなどと誤解することは避けねばならない。

 

 さて第二に考える場合は,入力をじゅうぶんよく理解し,それを元に頭の中で入力を現実世界のあり方や自身の経験についてイメージを膨らませたうえで結論を下し,出力する場合である。このような発言の仕方を行う人間は,入力された言語を,世界についての自らの知見と経験を以ってイメージに変換して,因果関係と論理とに従い,物語を構築する。入力された言語の指示対象が何であるか,経験と論理に従えばその対象はいかなる振る舞いを見せるかを想像して,それをまた言語へと変換し,出力するのである*1

 このような過程を経て発話する者は,ツッコミに対しても適切に反応する。それはなぜなら,その者は言語の指示対象について,観察などの経験に従って確立されたイメージを保持しているからである。あたかも,第一の場合の人間は垂直に立てた円柱を真横から見て描いた絵しか知らないので長方形を出力することしかできないのに対し,第二の場合の人間は円柱を様々な角度から観察し描写する経験をしているために円柱というもののイメージを確立しているためにあらゆる角度から見た円柱の図を出力できるかのように。

 

 そして最後,第三に考える場合は,第一の場合とそっくりに見えるが,実は第二の場合の結果として生ずる出力のあり方である。つまり,第二の場合を個別の例について何度も行うことによって反応の速度を高めた結果である。すなわち「このような入力に対して適切な出力はこうである」と,自らの納得のいく経験に基づいて反応する場合である。ある入力について第二の場合のように吟味された出力を返した経験に従い,同じ入力に出会ったとき,過去に使用した妥当な出力を返すのである。

 この場合に注意しなければならないのは,まず第一に,現前している入力が過去に経験した入力と確かに全く同じであるかどうかを判断することであり,そして第二に,過去に使用した出力の過程が確かに妥当であったのかを判断することである。過去にある入力に対して間違った出力を行ったのに,現在の同じ入力に対して同じ出力を行うことは,誤りである。また仮に,過去のある入力に対して適切な出力を行なっていたとしても,現在の異なる入力に対し,別の入力に対する出力を行うことも,誤りである。

 

 結局正しくあるためには我々は常に,過去に行った推論の過程に見落としがないかを吟味し続けなければならないし,現在直面している問題に対し過去に用いた推論をそのまま適用することは妥当であるのかも見極めなければならない。その過程の処理速度はゼロではないので入力に対して即時的反応を要求することは誤りを生ぜしめ得るし,処理速度を明確厳密に定量化し四則演算することは困難であるために正しくあることの計画を策定することも難しい。思索の生む雫は,それが出来上がるまで熟成を待たねばならないのである。そして思索の雫についてこの文章もまた,思索の結果として外界に露出した雫なのである。

 

 

 

 

*1:ここでは単純化のために言語とその指示対象とをすっかり切り離してしまったが,実際に言語を用いるということはより複雑で,言語と指示対象とは不可分な場合がある。