映画「アイズ・ワイド・シャット」

映画「アイズ・ワイド・シャット

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要旨

 主人公は自らの性的な欲望を妻に隠す。しかし妻は自らの欲望を夫に告白する。主人公は妻の貞節について不安を抱くと同時に,自らの欲望に向き合いながらクリスマス直前のNYを彷徨い,一晩の危険な冒険をする。彼の欲望を覆い隠していた仮面は最後には剥ぎ取られ,彼も妻に告白する。妻は言う,「私たちファックしきゃ」と。

 

詳細

オープニング

 冒頭で5つの言葉が順番に映される。”WARNER BROS. PRESENˇS”, ”TOM CRUISE”,”NICOLE LIDMAN”,”A FILM BY STANLEY KUBRICK”,”EYES WIDE SHUT”。同時に,ショスタコービッチのジャズ組曲のワルツ2番が流れる。

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 字幕が終わると,カメラはトム・クルーズ演じる主人公の部屋の中を写す。冒頭に流れるジャズ組曲は,実は主人公の部屋で流れているBGMだったのだ。彼がコンポのスイッチを切ると同時に,最初は「作中の世界の外」で流れていると思われた音楽も止まる。この演出は実にユーモアたっぷりだ。最初観客はジャズ組曲は映画のBGMだと思っている。つまり作品の登場人物が演じる世界の「外」で音楽が流れていると思っている。たいていのサントラは,そうだ。けれども主人公がスイッチを切った瞬間,音楽は登場人物たちの世界の「中」で流れているものに変わる。この瞬間にサントラは「越境」するのだ。これはイニャリトゥの「バードマン」で使用されるジャズや,ノーランの「インセプション」で使用されるエディット・ピアフの「水に流して」を私に思い出させる。


キューブリックが観客に求める冷静さ

 冒頭に流れる5つの言葉のあいだには,ニコール・キッドマン演じる主人公の妻の着替え中の後ろ姿がサブルミナル的に挿入される。キッドマンは,この映画の中で頻繁に,ヌードや,胸の突起が透けて見える姿を晒している。キッドマン以外にも多くの女性が,この映画でヌードを晒している。
 ただしこの映画は,観客に欲情させることを主眼に置いて製作されたものではないと私は思う。キューブリックは視覚的な美を愛し美的な感覚に訴えかけるが,一般的に「感情」とされる興奮や悲しみといった感情を喚起することを避ける。特に本作品において彼が観客に要求するのは,普通人を興奮させるものを,冷静に観察し考察することだ。人口に膾炙した表現を用いるならば,「感情的」「動物的」「興奮させる」内容を,「理性的」「人間的」「冷静」に観察することをキューブリックは求める。「なんてエロい映画なんだ」と興奮したり,「卑猥」と鑑賞を避けたりするような観客は,彼の作品を理解するスタートラインに立っていない。
 彼のこの傾向は全作品に共通する。例えば「バリー・リンドン」が登場人物から一歩引いて景観を俯瞰させる構図のシーンを多用し,栄達の喜びも転落の悲しみや落ち込みも喚起させることを避けながら製作されている点。「シャイニング」は,登場人物当事者にとっては恐怖体験でありながらも端から見れば笑えるような場面を設け「シュール」さや「ブラックジョーク」感を持たせている。性をテーマにしヌードを存分に映し出す「アイズ・ワイド・シャット」も例外ではない。彼が感情の喚起を避けるが故に彼の作品を退屈だと思う者もいるだろう。けれど彼は,自分の思考の誘導を映画の作り手にすっかり委ねてしまう観客ではなく,自発的に映画を考察する観客を求めている。

 

 

欲望を隠す夫,欲望を告白する妻

 舞台はクリスマス直前のニューヨーク*1だ。主人公は内科医で,比較的裕福なようだ。主人公夫妻は結婚して9年。7歳になる娘がいる。夫妻は連れ立って,ジーグラーというパーティに出かける。
 パーティの場で起こった主な出来事は3つだ。

  1. 主人公は会場でピアノを弾いている男性(以下,「ピアニスト」)が,学部時代の友人であることに気がつき,会話を交わす。そしてピアニストの普段の職場であるナイトカフェを紹介される。主人公はあとでこのナイトカフェを訪れ,ピアニストから「乱交屋敷」のことを聞かされる。
  2. パーティの場で夫妻はそれぞれ誘惑される。主人公はモデルの女性2人に,妻はハンガリー人の男に。妻は誘惑を拒絶するわけでもなく思わせぶりなそぶりを見せるが,「結婚しているから」と断る。一方主人公はパーティの主催者であるジーグラーに呼び出されてたので,モデルとの会話の中断を余儀なくされる*2
  3. 主人公が呼び出されてジーグラーの元へ行くと,モデルの女性(以下,「モデル」)が意識朦朧としていた。ジーグラーとの最中に麻薬を注射して倒れたのだ。主人公はを介抱する。彼女は後で彼を救うことになる。

 帰宅後に夫妻は愛し合うが,妻に集中する主人公に対し,妻の目線は何か他のことを考えているかのように,脇を見つめている(このシーンはポスターにも使われている)。

 パーティ翌日の夜。夫妻はマリワナを楽しむ。そして今日のパーティについて会話を交わす(会話文は引用ではなく要旨要約)

 

主人公「君を誘惑したハンガリー人の気持ちはわかるよ。君みたいに美しい女性とは,どんな男でもセックスしたいよ」
  妻「男が私と話したがるのは,美しい私とセックスしたいからなの?」
主人公「そんなにはっきりとは言えないが,男っていうのはそういうものさ」
  妻「じゃああなたも,2人の美しいモデルとセックスしたかったのね」
主人公「男が美しい人とセックスしたいと思うのはあくまで一般的なもので,例外もある。僕は君と結婚しているし,嘘をついて君を傷つけたくない」
  妻「あなたはあの2人とセックスしたかったけれど,私を傷つけないためにセックスしなかったのね」
主人公「落ち着けよ。マリワナのやりすぎだ」(話をそらした,主人公は劣勢だ)

 

  妻「じゃあ仕事の時は?裸の女の人の胸を触っている時に欲情しないの?」
主人公「僕は医者だ。個人的な感情は持たない」
  妻「あなたは患者に欲情しないかもしれないけれど,もし患者の女の人があなたに欲情したら?」
主人公「患者は自分の健康が心配だから,セックスのことを考える余裕がない」
  妻「じゃあ患者が自分の健康に問題がないとわかったら?」
主人公「女の人は基本的にそういうことは考えないんだ」
  妻「どうしてわかるの?」

 

主人公「君は僕に嫉妬しているのか?」(主人公が話をそらすのは2回目だ。劣勢なのだろう)
  妻「あなたは私に嫉妬しないの?」
主人公「だって君は僕の夫だから。娘がいるからだ。君を信頼している」

 

 ここで妻は笑い声をあげる。そして旅行先で「この海軍士官とセックスしたい。たとえ初対面であっても。そして夫や娘,全てを捨ててでも」と感じた体験について話す。この話を聞いて以降,主人公の中に,妻に対する疑念と不安が根差す。妻が海軍士官とセックスしている光景をしばしば想像してしまうようになったのだ。

 ここで主人公に電話がかかってきて,患者が死んだと告げられる。彼はお悔やみへと向かう。

 


彷徨

  1. 主人公がお悔やみに到着すると,娘が出迎える。彼女は結婚を控えていたが,ほとんどお互いを知らない主人公に対し熱烈にキスをし,「愛している」と告げる。まさに妻の告白した体験通りのことが目の前で起こったのだ。主人公の不安はいや増す。翌日,主人公は彼女に電話するが,婚約者が電話に出たので彼女との逢瀬を諦める。
  2. 街角で女(売春婦?)の部屋に誘われる。彼は乗り気になるが,妻から電話がかかってきたからか,彼は踏みとどまる。翌日,主人公が再び彼女を訪れたところルームメイトが現れる。彼は彼女とセックスしようとするが,制止される。判明したのは,彼女がHIV陽性だったと言うことだ。不幸中の幸い。
  3. 次に主人公はピアニストのカフェに向かう。会話中にピアニストに電話がかかってきたことをきっかけに,「乱交屋敷」での秘密の仕事のことを告げられる。主人公はピアニストから,屋敷の場所とパスワードを入手する。
  4. 翌日判明するのは,ピアニストは主人公にパスワードを教えたために暴行され,屈強な男2人と共にどこかへ消えてしまったと言うことだ。
  5. 主人公は「乱交屋敷」に向かうため,仮面とマントを入手しようと貸し衣装店に向かう。起き出した店主が店を開けて見ると,店主の娘が隠れていた。彼女はアジア系男性2人を誘惑して化粧させ,お楽しみの真っ最中であった。店主は2人を監禁し,警察を呼ぶと言った。翌日主人公は衣装を返却しに行くが,自分が仮面をなくしたことに気がつく。また彼は,昨晩の東洋系の男2人をまた見かける。どうやら店主は娘に売春をさせることにしたらしい。娘は厚化粧をし,微笑を浮かべて主人公を見つめる。主人公は唖然とする。
  6. 衣装を入手した主人公が潜入した屋敷は,仮面をつけた人々が乱交の儀式を執り行う会場となっていた。あとで判明するのは,この会場に集まる人々はいわゆる「上流階級」人々の中でも錚々たるメンバーだということだ。主人公は招かれざる客であることがばれる。主人公は人々に取り囲まれ,衆目を前に服を脱ぐように要求されるが,身代わりの女が現れ,主人公は救われる。翌日主人公は再び「乱交屋敷」を訪れるが,執事らしき男性から「詮索するな」との警告の記された紙を渡される。また見知らぬ男に尾行もされる。さらに彼は,自分がパーティ会場で介抱したモデルがオーバードーズで死亡したことを病院で知る。彼女が自分の身代わりとなって死んだのだ,と彼は推測する。遺体に面会した彼は彼女の死に顔に顔を近づけるが,立会いの職員の目もあってか,何もしない。

 

 

夜が明けて

 「乱交屋敷」から追い出された晩が明け,彼は性欲を燻らせながら(ムラムラしながら)昨夜の彷徨の経路①〜⑥を辿り,それぞれの「後日談」を確認する。
 ⑥の病院を出るとジーグラーから主人公に電話があった。主人公はジーグラーの邸宅に呼び出され,いくつかの「ネタばらし」をされる。主人公を尾行させたのはジーグラーであり,ジーグラーもまたあの「乱交屋敷」にいたのだった。またピアニストをあの乱交の儀式に紹介したのもジーグラーだった。そして「モデルは自分の身代わりとして殺された」という主人公の推測に反し,ジーグラーによれば彼女は何もされておらず,主人公が人々に取り囲まれたのは彼を脅し追い出すための狂言だったのだという。そしてモデルは,屋敷から去った後に麻薬中毒の果て自滅したのだという。
 しかし主人公の疑念は払拭されない*3

 主人公が帰宅すると,妻が仮面を夫の枕において寝ている。主人公の「仮面が剥がれる」。彼は涙を流し,妻に告白する。夜が明けて,2人は娘のクリスマスプレゼントを買いにデパートへ。「これからどうする?」と呼びかける主人公に妻は返す。「ファック」。

 

 

この映画はなんだったのか

 主人公は,妻の告白により,所有物が失われることへの危機感を抱いている。多くの人間は,恋愛において,モノアモリーを志向する。モノアモリーとは,恋愛の相手をただ1人に限定することだ。そしてモノアモリーを(意識的・無意識的問わず)選択する人間は,しばしばモノアモリーの対象である人間以外への性欲を(仮に抱いていたとしても)抑圧し,そして貞操を表明することもある。さらに自分がモノアモリーを選択するのと同様に,モノアモリーの対象である人間にもモノアモリーを要求することもある。さらに人間によっては,モノアモリーを選択することの正当性についての論理を構築し,披露する。これにより,相手が「鎖で繋がれる」ように自分から離れないこと,自分だけを愛することを要求する。「私はあなただけを愛するから,あなたは私だけを愛する」「あなたが私だけを愛するなら,私もあなただけを愛する」と。しかししばしばモノアモリーの論理は,実はモノアモリーの対象である人間以外に向けられることもある自分の性欲を無視している場合がある。

 主人公の場合,相手を繋ぎ止めておくためのモノアモリーの論理を披露したにもかかわらず,妻から欲望を正直に表明されてしまった。恋愛における1対1対応の関係の前提が揺らいだのだ。「あなたが私だけを愛するなら,私もあなただけを愛する」という条件が揺らぐ。ここで主人公がとった選択は,自らも妻以外への人間への性欲を抑圧しないという行動に出ることだ。しかしこれはモノアモリーの論理を披露した手前,「嘘つき」の烙印を押される危険性を孕む。また主人公が妻に見放されるという可能性もあるだろう(ただし今の場合妻は正直に欲望を告白しているので,そうでない場合に比べて危険性はやや劣るかもしれない)。
 性欲を解放し羽を伸ばす主人公が最終的に訪れたのは仮面乱交の会場だ。ここで仮面を「無個性」の象徴と見てみよう。誰もが誰とでも性交するこの場所で,人々は「男性」「女性」以外の特徴を失う。これは1対1対応を要求し性欲の対象を限定する恋愛のありかたとは対極にある。だが主人公は残念ながらこの会場からは放り出される。ただし主人公が放り出されたことは何かを象徴するものではないだろう。主人公は設定的にこの場に留まることはできなかっただろうし,もしこの場所が主人公の居場所になってしまったらストーリーが展開しない。
 主人公の仮面が妻によって見つかるのは「仮面が剥がされる」こと,つまり主人公の告白を象徴する。主人公が告白したのが,あの晩の出来事だったのか,それとも自身の性欲についてであるのかはわからない。ただし前者について説明するとなると必然的に後者についての説明も包含することになるだろう。後者の説明は前者を包含しないが。そして仮面について説明するとなると前者の説明にならざるを得ないだろうとも思う。
 告白から「ファック」までをつなぐものがない。ただ「性欲を持った2人の人間がいる」ということなのだろうか?ただしこの解釈はは「仮面」という無個性の象徴が脱がれたことと矛盾するので,あくまでここでの「仮面」とは「欲望を隠していること」の象徴なのだと考えてみよう。

 

*1:舞台はニューヨークなのだが,撮影は全てロンドンで行われたと言う。舞台がニューヨークであることを強調するために時々NYの景観が短く挿入されるが,他の場面とは映像の感じが異なっているので,別に撮影されたものだと分かる。

*2:ここで夫妻を対比的に捉えることは適切であろうか?

*3:主人公は妻に疑念を抱き,ジーグラーに疑念を抱く。本作は疑念の映画としての一面も持つ。