不幸せの主客

不幸せの主客

 もし仮に僕が「自分は不幸せに生まれついて,現状人生の身動きが取れないでいる」と発言したとしたら,聞き手や読み手はどのように応答するだろうか。同情や共感ではなく,自分を幸せに仕向けようとする説得しようとする応答として,僕は少なくとも2つの可能性を想定することができる。

 第一の場合の応答。ある者は僕に「君の生活は『健康で文化的な最低限度』を達成しており,この基準に照らしてみれば君は幸せなはずだ。君は,最低限度をクリアしていない路上生活者や戦争孤児,飢餓に見舞われた人や病気で死にかけの,本当に不幸な人びとに比較すれば,幸せなはずだ」というかもしれない。

 第二の場合。また別のある者は僕に「君がこれこれの状況に直面しているのであれば,こうすれば良い。私であれば,そのような問題にはこれこれの手段を以って対処する。そうすれば,君は不幸から脱することができるだろう」などというかもしれない。

 

 第一の応答が無視しているのは,僕が厳然たる事実として感覚する,悲しみや憂鬱といった不幸だ。たとえ僕の人生が,一般的・典型的な幸せというものを客観的に定義しようとするチェックリストの項目を全て満たしていようとも,僕が不幸というものを感覚しているという事実を消し去ることはできない。僕は,感覚されるものを無視しようとするこの説得が嫌いだ。ある者は他人の不幸を「贅沢な悩みだ」などと言う。

 

 第二の応答をする人間は,「この僕が,他ならないこの僕である」ということがどういうことなのかを知らない。「私が君の立場なら……」という反実仮想のもとで問題解決のためとして何らかの方法論が述べられるとき「その方法論は,使用者個人の特質に依存せず個人から独立した普遍的なものである」ということを前提においている。しかし残念ながら,一般的な問題解決の方法論は,それが一般的である以上,些細な特殊個別的なものを,問題が生じている具体的な状況を捨象している。そして現実の問題においては(これは比喩だが),些細で特殊個別的なパラメタが,関数の増減に,非常に大きな寄与をすることがある。

 さらには,普遍的方法論は,その学習と実践が誰にとっても可能であることを想定しているが,果たしてそうだろうか?

 

 もしもあなたが真に,僕が僕であるということを理解したなら,こう言うだろう。「君は不幸せに生まれつき,現状人生の身動きが取れないでいる」と。