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WORDS

-それ以外に抽象しようのない-

偏見と帰納(BBC子供乱入事件をきっかけにして)※書きかけ(?)

偏見と帰納BBC子供乱入事件をきっかけにして)

 

 私はいわゆる「差別」とか「偏見」というものの仕組みを、帰納的推論(インダクション,induction)*1を用いて整理できないかと思っている。

 

偏見の3段プロセス

プロセス(1) 学習と想起

過去の経験によれば,多くのXはYである

プロセス(2)予測

いまここ目の前のXもYであろうと予測される

プロセス(3)規範または願望または信念

いまこの目の前のXもYでなければならない、そうあって欲しい,それ以外はありえない,許さない,など

 以下ではプロセス(1)(2)を併せて通常の帰納的推論であると見なしたい。私は「帰納的推論は人間が物事を学習するさいにはたらく,機能である」と思っているから,帰納的推論に対して「差別」とか「偏見」とか非難することは不当だと思う。詳細に説明するとこうなる。

 プロセス(1)(2)で実行される帰納的推論はあくまで予測であり,反例が出たならば帰納的推論に基づく予測は偽として撤回されねばならない。そして帰納的推論はそれが真であると検証されるまではあくまで予測であり,真であるとは言えない。

 ただし一般に,なんらかの予測を,あらゆる場合について実験的に検証することは困難である。というのも生存するあらゆるカラス*2を調べつくすことは困難であるし,死んだカラスやこれから生まれてくるカラスに至っては現在ほとんど調べようがない。したがって帰納的推論によって得られた予測は,極論,いつまでも予測にとどまる*3。けれども帰納的推論によって得られた予測を前提として,仮説を形成したり,問題解決の戦略を立てたりすることで,有益な成果を得ることができることもある。だから帰納的予測が有害であるとも言えないし,帰納的予測を無視することが有益であるとも言えない。

 というわけで,仮に人間の帰納的推論が差別や偏見に人間を至らしめるプロセスの中途段階にあるとしても,帰納的予測が真であることの検証が厳密には困難であることを理由にして「帰納的推論を禁止し罰則を与えればよい」というわけでもないと思う。

 

   私はいわゆる「差別」や「偏見」を3つのプロセスに分割し、そのうち第1第2のプロセスの不当性は大きくはないということを言いたかった。したがって仮に「差別」や「偏見」に何か不当性があるとすれば、中心的に寄与しているのは第3のプロセスであると思う。

 仮に帰納的推論そのものには罪がないとして,私は,いわゆる「差別」や「偏見」の問題を生ぜしめるのは,個人や集団が,プロセス(1)+(2)の帰納的推論から飛躍してプロセス(3)まで進んでしまったり,プロセス(3)がプロセス(2)と混在して分離されていないことだと思う。罪があるとしたら,プロセス(3)への飛躍や,プロセス(2)(3)の不可分だと思う。

 

 以下の例を見たい。下の知識①②に基づいて予測を行うのは,上記のプロセス(1)(2)つまり帰納的推論に留まっており、プロセス(3)には達していない。

 

知識① 他国に比較して韓国ではベビーシッターを雇う世帯数が多い

知識② 白人が夫か妻のうち少なくとも一方に含まれる全ての結婚数のうち,夫妻ともに白人である場合の結婚数の割合は,他の場合に比べて非常に多い

予測 今テレビに出ている韓国在住の白人男性の結婚相手は白人であると予測される。したがって白人男性の子供たちを世話している非白人の女性は,白人男性の妻ではない。であるとするならば彼女はベビーシッターであろう。この予測は,知識②に矛盾しない。

 

 おっと,冒頭で「差別や偏見の仕組みを帰納的推論によって整理したい」と言ったのに,ここで帰納的推論でない推論が登場した。上記の予測における下線部の推論は帰納的推論ではない。アブダクション(abduction)だ。アブダクションは「仮設形成」とか「仮設的推論」と呼ばれる。アブダクションというのは,上記の例の場合「下線部のような仮説を形成したとしても,既知の知識①に矛盾しない」ということである。

  

 ところで私がこのような予測の例を出した理由を話したい。この数日間のあいだに英語圏のソーシャルメディア上で「BBC子供乱入事件」が話題になり,興味を惹かれたのだ。とりあえずYoutube上で見つけた動画のリンクを貼ったので,ご覧いただきたい。

 

youtu.be

 

 この動画内で起こったことを,当時の視聴者の前提知識をもとに整理する

E① 観光在住の白人男性の大学教員がBBCのテレビに出演し,自宅と中継

E② 黄色い服を着た幼児(?)が腕を振りかぶって中継に乱入

 ※1 視聴者は(自宅だし,白人男性の子供だろう(肌は白く髪もブロンド))と仮説

E④ さらにベビーウォーカーに入った乳児(?)も乱入

 ※2 視聴者は(やはりこの子も男性の子供だろう)と仮説

E⑤ 乱入した2人の子供を連れ出そうと,アジア系女性がスライディングしてくる

 ※3 ここで視聴者が,アジア系女性を子供たちにとっての何であるか,ひいては白人男性にとっての何であるか,を予測した推論過程の1つの場合が,上の知識①②予測である。

 

 出来事自体,面白いし話題になると思う。私の感想だが,E②のブンブンとした腕の振り方,E③でベビーウォーカーに入った子がチラッと姿を覗かせて「もう1人きたぞ」と思わせたところで,E④で女性がスライディングしてくる。いわゆる「シュール」な出来事が1つずつ順番に起こっている。

 けれどもソーシャルメディア上で話題になったのは,起こったことそのものだけではない。上記の予測に基づいてアジア系女性を「ベビーシッターである」と断定したり,それを前提とした発言をした人々に対して,「差別だ」「偏見だ」という指摘が噴出したのである。実際,韓国語話者によれば「動画のなかで子供たちが韓国語で女性のことを『ママ』と呼んでいた」というのである。

 テレビ中継中のハプニングをきっかけにしてソーシャルメディア上で主張が盛り上がった様子については,以下の記事をご覧いただきたい。

 

www.bbc.com

 

 ざっくりまとめると「アジア系女性は実際にはベビーシッターではなく白人男性の妻であるにもかかわらず,白人の子供の面倒を見るベビーシッターである」と判断していた人々に対して「白人優位主義の偏見・差別だ」と指摘がされ,盛り上がったのだ。

 上記の知識①②に基づく予測を振り返ってみる。確かに「白人男性の妻ではないとしたら,アジア人女性はベビーシッターである」とする仮説のほかに仮説はゼロとは言えないなかで「ベビーシッター仮説」がどうして最もらしいと(そう判断した人たちは)判断したのだろうか?あるいは,そもそも「ベビーシッター仮説」の前提であった「アジア人女性は白人男性の妻ではない」という判断を疑わなかった人々は,どうしてその判断を疑わなかったのだろうか?

 しかし一方で,知識①②に基づく予測は決して見当はずれとも言えないように思えるし,もし仮にアジア系女性が本当にベビーシッターだとしたら,推論と仮説が正しかったということになる。

 

 上記の帰納的推論アブダクションには,妥当に思えるところもあれば,必然とは言えない仮説を持ち出している。もしも「ベビーシッター仮説」に,純粋に「経験に基づいた」とは言えない何らかの判断が介入していたのだとして,その判断が「白人優位主義」的なものであったなら,確かに「ベビーシッター仮説」は「偏見」であったということになるだろう。 それが冒頭で示した偏見のプロセス(3)である。

 

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 最初,偏見とはプロセス(1)(2)からプロセス(3)への飛躍,あるいはプロセス(3)の(2)からの未分化,と述べた。

 ここで,偏見の1つのタイプとして「プロセス(1)や(2)における失敗」を追加したい

 

**

 

しかし統計的手法によっていくら(1)の判断が正しかったとしても、(1)から(2)への帰納的な飛躍は真とは言えない。「あらゆる先入観を排除する」なら、少なくとも、仮に(1)を行なったとしても(2)に飛躍してはいけない。

 

けれど(1)から(2)への飛躍は、我々が(2)を前提として何らかの結論を下し実行に移すさい、頻繁に行なっていること。この帰納的な判断から実行までを、ものごとをはやく処理しようときに止めると、事態が悪化するかも知れない。
 

緊急性がなく、人間の快不快にかかわりそうな場合において、(1)に基づいて(2)を導いたとしても、それが真であるという断定を保留し、実験的に確かめるということをするといいと思う。

 

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「偏見」という単語とセットで使われるのは「差別」という単語だから,「差別・偏見と帰納」というタイトルにしてもよかった。そのほうがこの文章の内容を,読み手に対して瞬時に伝えることができると思うから。

 でも,あまり「差別」という言葉は使いたくない。

 たぶん「差別」というのは,おおざっぱに「不当な区別」のこと。何がどう「不当」かというと,例えば「能力に応じて支払われるはずの給与が,性別・人種・宗教・年齢・学歴といった属性に依存している」といった場合は不当。「まったく同じ仕事をしているのに,僕の給与が60歳のおじさんの半分なんておかしい!」ということ。

 そして頻繁に「差別」は「蔑視」と結びつく。「女のクセに,俺の意見を無視するっていうのか!」「黒人は俺たちみたいな上手いものを食わずに,犬のクソでも食らってな」とか。こういう「蔑視」もしばしば「差別」として扱われているけれど,自分は「差別」をあまり「蔑視」の意味では使いたくない。

 というのもこういった「蔑視」の主眼は精神とか人格みたいなもの攻撃,「侮辱」に主眼があると思うのだけど,「不当な差別」の主眼は「侮辱」というよりも「不当な差別によって生じた不利益」にあるように思うから。例えば「属性を理由に,お金や職や教育や社会保障が得られない」とか。

 たぶん自分は,「差別」の主眼を「属性を理由とした不当な区別による実益の損失」に置きたいから,「差別」という言葉を自分が使用したさいに「蔑視という人格攻撃」という"実益"の損失とは言い難いものを読み手がイメージしてしまわないよう,「差別」という言葉を使わないんだと思う。

 ただ,属性を理由にして生じる問題から「蔑視」の側面は除外したくない。そこで「偏見」という言葉に「実害」と「蔑視」の両方を包含させたい。「偏見」だったら,「不当な区別」も「蔑視」も含めそうじゃない?

 というわけで自分は「こういう文脈」について話すときは「偏見」を,広くていくつかの意味を持った便利で楽な言葉として使います。

 

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追記:

 知識①として上記のものを仮定すると予測下線部はアブダクションとなるが,知識①として「白人男性の子供を世話するアジア人(女性)の多くはベビーシッターである」を仮定すると予測下線部は帰納的推論から導出した知識の演繹的適用ということになって,知識②から予測を導出するのと同種の推論となることに気がついた。

 おそらく一般に,後者の仮定のほうがより「差別的」であると判断されるだろう。

 

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3/20追記

Robert Kelly教授が家族でBBCに再出演

インタビュー動画

jp.wsj.com

 

 

 

*1:帰納的推論inductionというのに対し,演繹的推論deductionという。先に調べてみるとdedctとは「差し引き」のことである。演繹とはより一般的な命題からより個別特殊な命題を導くことであるから,どうやら一般→個別と導出する際に「差し引き」されて脱落するものがあることが由来のようだ。ということは,deductと対になりそうなinductとは「足す」の意味であり,個別の例から一般的命題に飛躍するときに「足す」感じがするのが由来だろうか? と思って調べると,「足す」というより「誘導する」という感じだった。

inductionの意味 - 英和辞典 Weblio辞書

*2:参考:「全てのカラスは黒い」は真であると,実験的検証によって確認することはできるか?

*3:この辺は統計学で3σとか5σとか云々のお話を学んでください。