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WORDS

-それ以外に抽象しようのない-

僕の日記は続かない

僕の日記は続かない

 

日記。毎日書く日記。

このブログを日記の代わりに使おうとしたことがあったけれど,長続きしなかった。

無地のノート*1も持っていて,毎日起こったことを記録する試みをしたことも数回あった。けれどたいてい「2日間分をまとめて書く」とか「3日間分をまとめて書く」とか溜め込んでしまう。そして4日間分以上貯まると面倒になってやめてしまう。

もう1回初めてみようか?けれど(手が疲れるだろうなあ)(夜に帰宅したらそれ以上活動せずゆっくりしたいなあ)などと考えると,やる気にならない。

それよりはテレビを見たり,iPhone6sに入ったスターウォーズのゲームアプリをすることを選んでしまう。

 

SNS上で,日記をつけている人をたまに見かける。

恋人も遅くとも高校生の頃からは日記を毎日つけている*2らしく,それを聞くと負けたくなくなる。

負けたくなくて日記をつけようかなあなどと思うけれど,上に書いたように,続かない。

これを繰り返す。

 

結局,自分には「毎日日記をつけよう」という根本的な動機が欠けているのだと思う。

「何となく他の人が日記をつけているのに負けたくない」

「何となく日記を毎日つけることのできない自分が劣った人間に思う」

「だから日記でもつけてみようか」

このようにして自分が日記をつける理由は「日記をつけない状況の否定」であり,「日記をつけることの消極的な肯定」であって,「日記をつけることの積極的な肯定」ではないのだと思う。

自分には「日記をつけることの積極的な肯定」という,直接的な動機が不足している。

だから続かない。

 

 ***

では日記を書き続ける人には「日記をつけることの積極的な肯定」があるのだろうか。

あるとしたら,具体的な理由はあるのだろうか。

あるいは「〜だから日記をつけることが楽しい」というような「理由づけ」のかたちで積極的な肯定感を得ているのではないとしても,積極的に日記を書くということを体験する「感覚」はどのようなものなのだろうか。

日記の楽しさとは,どんなものなのだろうか。

そもそも楽しくなどなく,義務感だけで続けている人もいるのだろうか。

 

こういった問いに対する返事を得たとしても,自分が日記の積極的な肯定を見出すわけでもないかもしれないけれど。

 

***

ここまで書いて見て,日記の「楽しみ方」というか,日記を書く動機みたいなものが思い浮かんだ。

それは見返すことだ。

日記を書くこと自体に楽しみがあるのではなく,日記を書き溜め,それを後で見返す楽しみ。

自分の恋人が「あの頃って何をしてたっけ」と日記をたまに見返すらしいことを知って,こう思った。

どういう感覚なのだろう。「貯蓄」のようなものだろうか?禁欲的だと思う。

書くこと自体に楽しみがあるわけではないけれど,あとあとで見返す楽しみがあることを見越して,文章を書き溜めるのだ。

あるいは,日記とはあくまで記録であり,どの情報がのちのち重要になってくるかわからないけれど,価値は抜きにして,淡々と事実を記録するのだろうか。

 

***

以上のように書いてみると,(少なくとも現在の)自分には「現在的」「快楽主義的」「実際的」というような特徴があるかもしれない,と思った。

「現在的」「快楽主義的」というのは,将来の可能性に備えて現在行動することはせず,また「それ自体が楽しみや目的ではないこと」をやろうとしないこと。

「実際的」というのは,「いつ役に立つかわからない情報のために時間を費やすことをしない」ということ。あるいは「本当に自分にとって大事なこと」は記録しなくても記憶として覚えていたり思い出したりするし,問題が解決したならそのことを思い出さなくてもいい,というのが自分の行動スタイルなのかもしれない。

ネガティブなものに対しては記録するのではなく対処し解決しようとするし,何か楽しいことがあったなら,自分はそれを思い出すのではなく,何度も楽しいことを体験しようとするのかもしれない。

 

いま「問題」と書いたけど,多分自分が言う「問題」とは,短期的な問題だろう。

日記には,短期的には自覚することのできない情報を抽出することができるというメリットがあるかもしれない。

例えば食事とか,排泄とか,運動とか,睡眠とか,そういったものを事細かに記録していれば,長期的な傾向から,何か役立つ情報を抽出できるかもしれない。

長期的な問題に,自分が日記(というか生活記録?)なしに対処できるかというと,それは怪しい。

 

***

日記には色々な使い方があって,生活記録的に用いるのも1つ。

それとは別に「日記とは自分の印象に残ったことを記録するものである」と考えるならば,印象的なことがなかった日には無理に日記を書くことはない。

となると,毎日生活を記録しているわけでもないが印象的なことはブログなどに記録している自分は,”日記”を書いているとも言えるかもしれない。

ただし自分の”日記”は,単位が1日ではなく,1つの出来事で,しかもその出来事は何日も何年も時間をまたいで起こっていることだったり,現在自分の中で起こっていることだったりする。

というような自分のカテゴリの広範化,単語の広義化は自分の癖であり,いいのか悪いのか,いいとしたらどうよくて,悪いとしたらどう悪いのか,わからない。

カテゴリや語義の崩壊と言ってもいい。

 

 

******

ホコリのせいか花粉のせいかあるいは別の原因で集中力がないのか,それとも自分のネタが枯渇しているのか,もう書けません。

それではさようなら。

もしこの記事について何か思い浮かんだことのある方,直接的なやり方でも,間接的なやり方でも構いませんので,教えてくださいね。

 

 

 

 

 

*1:現在このノートは,過去のことを記録するものではなく,将来起こり得るものに備えたり,現在生じている問題について考察したりするためのものとなっている。人はそれを手帳と呼ぶ。

*2:ちなみに恋人は「疲れるから」との理由で「1日5行以内」との制限をもうけているらしい。けれど自分は,書きたいことを必要十分な量で表現したいと思うと,文量に制限を設けることができない。