無題

無題 

 

 目が捉えているものごとを描写する。頭の中で行われている操作を描写する。言語を「描写するもの」として*1使っているとき,自分の願うことは「自分の描写を読んだ人が,描写を行なっている自分と同じ体験を再現してくれる」であろうこと。

 

 そして「この願いは,自分だけが抱くものではない」ということを仮定したい。

 

 もしもそういう願いの込められた描写を見聞きした人が「それって、こういうことなの?」と,解釈を述べたとしよう。もしもその人が,描写を見聞きして行なったことが解釈を述べることだけだったとしたら,描写した人の意図に反するかもしれない。描写した人の願いは,体験の共有だから。

 描写を見聞きした人が,描写した人と同じ体験の再現の試みをしたうえで解釈を述べたのだとしたら,それは「許容範囲」かもしれない。というのも,ある描写を解釈した表現は元々の描写の表現とは異なるが,あるイメージを喚起する語句は人に依って(同言語内であればしばしば微妙に,異言語間であれば大きく)異なるから,元々の描写の表現とその解釈の表現が異なっていたとして,それぞれの表現者に喚起されるイメージは同じものであるかも知れないからだ。

 

 もしも解釈を述べる人のやっていることが、その人に適した語句表現を通じて書き手と同じ体験を再現することではなく、「英語を日本語に直訳するようなこと」すなわち「翻訳すること」だけであったのなら、それは書き手読み手の意図に反するということになるかも知れない。

 

 しかし書き手が「読み手は自分と同じ体験をせよ」と願うのも独り勝手であるかも知れない。その理由を2つ述べる。

 第一に,先に述べた通り,同じイメージであっても,それを喚起する語句には個人によって微妙な,しばしば大きな,差があるからだ。ということは,同じ語句であっても,そこから喚起されるイメージには微妙な,しばしば大きな,差があるからだ。

 第二に,読み手に対してそのように願うことはしばしば,「未経験のものごとを言語を通じて再現せよ」と願うことに等しいことがあるからだ。膾炙した表現を用いれば「百聞は一見にしかず」となるが,未体験のことがらについてはしばしば,言語のみによって学ぶことは困難である*2

 

 「読み手の未体験のものごとは,書いても仕方がない」と思う一方で,読み手が経験済みでよく理解しているものごとも、言葉を通じ改めてそれに読ませることの意義が薄いのではないかと思うこともある*3

 ここまで私は体験というものを言語という記号とはまったく独立に扱っていた。けれど「未経験のものごとは言語から再現できず、経験済みなら言語で伝えずともよい」と考えたとき「『読み,聞き,話し,言語で考える』という言語体験そのものが何か新鮮な体験であればよい。そのような体験をさせる描写を自分は行いたい」と思う。そういう結論を自分は導く。

 

 

 

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2017/04/9 追記

 ヴィトゲンシュタインの『反哲学的断章』(2015年第4刷,青土社)のp.164-165に,次の記述を見つけた。

 

「芸術作品は『感情』を伝える」というトルストイのまちがった理論から,多くのことを学ぶことができるのではないかー実際,われわれは芸術作品のことを,感情の表現そのものとは呼べないにしても,ある感情表現とか,感じられた表現と呼ぶことができるのではないか。だから,「そういう表現を理解する人たちは,いわばそれに『スウィング』して,それに返事をするのではだ」とも言えるのではないか。「芸術作品は,なにか別のものを伝えようとしているのではなく,自分自身を伝えようとしているのだ」と言えるのではないか。ちょうどそれは,私が誰かを訪問するようなものである。私は,これこれの感情をその誰かに呼び起こしたいだけではなく,なによりもその誰かを訪問したいのだし,もちろん歓迎されたいのである。

 だから,「芸術家が書くときに感じることを,読者には,読むときに感じてもらいたい。それが芸術家の望みである」などと言うのは,ますますナンセンスなのである。これは私にもわかるが,(たとえば)詩を理解するとは,詩をつくった人が望むように理解することである。ーだが,詩人が詩を書くときに感じただろうことに,私はまったく関心がない。

 

 これはまさに,自分が上で書いたことに該当する内容じゃないか!

 自分は上のほうで「自分が書いたことを通じて、自分が書いたときに体験していたことを、読者に再現して欲しい」と書いた。それはなぜなら、体験や感じたことが言語化されるさいに、何か脱落するものがあるから。なるたけ脱落がないように心がけるけれど、それでも言語というものはそれが伝達したい体験そのものではない。それでもむしろ、体験そのものを感じて欲しいのだ。この背景にあるのは、言語とその伝達する対象とが独立であるという考え方だ。

 けれど、読者にとって既知の内容を言語で伝達する必要性が弱いと思うし、読者にとって未知のことは言語ではなく体験そのものをさせたほうがよいと思うから、自分がしたいのは、言語でしかできない体験をしてもらうことだと。ここで、言語とは完全に独立ではないような体験が出てくる。

 引用したヴィトゲンシュタインの文章が批判しているのは、前半部の、言語と伝達内容とを独立に捉えるような(いわば数学的な)考え方だろうか。そしてヴィトゲンシュタインは、「芸術作品は、芸術作品そのものを伝達しているのではないか」と提起する( 自分はあくまで言語一般のことを述べたけど、彼は詩をはじめとする芸術作品のことを話しているようだ)。

 確かに、音楽は音楽そのものを伝達しているかも知れない。リアルを志向する絵や彫像鋳像はしばしば何かを模倣するけれど、それらを眺めることは模倣した何か自体を眺めることではなく、絵の具とか木とか石膏とかを眺めることであり、模倣されたものと模倣するものとは別物である。字を眺めることも、紙とインクを眺めることである(ただし、「作品はそれ自体を伝達する」というとき、単に作品を構成する物質を眺める以上のことが言われていると思うけれど)。

 

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2017/04/14 追記

 

 パスカル『パンセ』p.16-17より(前田陽一・由木康訳,1973年,中公文庫)

 

 雄弁とは物ごとを次のように話す術である。一,話しかける相手の人たちが苦労しないで楽しく聞けるようにする。二,彼らがそれに関心をいだき,したがって自愛心に狩られて進んでそれを反省するようにしむける。

 それはすなわち,一方では話しかける相手の人々の精神と心と,他方ではわれわれの用いる思想や表現とのあいだに,われわれが打ち立てようと努める対応関係のうちに存するのである。そのことは,われわれが人間の心のあらゆる動機を知るため,次にそれに適応させようと欲する議論の正しい釣合を見いだすために,この人間の心というものを十分研究することを前提とする。われわれの話を聞く人の身になってみることが必要である。そしてわれわれの話に与える言い回しを自分自身の心でためしてみて,その言い回しが心に合っているかどうか,また聞き手が否応なしに承服されるようになるだろうとの確信が持てるかどうかを見なければならない。小さいものを大きくし,大きいものを小さくしてはいけない。何かが美しいだけでは十分ではなく,それが主題にかない,余計なものや足りないところがないようでなければならない。

 

*1:言語というものの機能や効用は,多分ほかにもあると思う

*2:その一方で人は言語から未体験の事柄について多くを理解したり,理解したつもりになったりする。これは不思議である。「つもりになる」ほうは真に学んだとは言えないが,ある種の言語は,その言語を扱うことそのものが体験である場合があると思う。

*3:ただし知っているそのものごとについて読書するのは,そのものごとを表現する言葉の学習である場合がある。また単にそのものごとについて「知っているつもり」になっているだけの場合もある。