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WORDS

-それ以外に抽象しようのない-

Newton力学 Column0:inspirationのはなし(発見/発明と,理解・洞察・霊感)

Newton力学のはなし Column0:inspirationのはなし(発見/発明と,理解・洞察・霊感)

 

barrynoether.hatenablog.com

barrynoether.hatenablog.com

 

 

 以下では,私の経験を他者も経験し得るものだという仮定に基づいて記述していることに注意されたし。

 

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 科学史年表などにおいては,数学定理や物理法則を誰かが「発見した」という言い方がされる。しかし,定理や法則は,物質として自然界に「実在する」わけではない。したがって、あたかも鉱脈や油田を掘り当てるかのように定理や法則を「発見する」という表現を用いることに,違和感を覚える人もいるようだ。

  あるいは次のようなことも,定理や法則を「発見する」と言うことへの違和感を喚起するかも知れない。つまり,誰かが何かを「発見する」というとき,次のようなことが仮定/前提あるいは想像されるかも知れない。「 探しているものを『発見』できるかどうかは,偶然の問題であり,探している人間の能力や気質への依存度は低いか,ほとんどゼロである」ということが。

 ところが科学的発見というのはどうやら,まったくの偶然によってなされるものではないようだ。ある種の発見は「何を見つけたいか」「何を知りたいか」にかんする明確な目的意識の元でなされている。ある発見は,偶然ではあるが,何らかの「備え」の下でなされており,その種の発見は「セレンディピティ*1と呼ばれる。微生物を発見し自然発生説を否定したLouis Pasteurは,1854年のリール理科大学学長就任演説で,次のように述べたという:

 

観察の領域において、偶然は構えのある心にしか恵まれない」(Dans les champs de l'observation le hasard ne favorise que les esprits préparés.)

 

  

 それでもなお定理や法則を「発見する」という言い方をする学者らの知的態度*2を「プラトニズム」「プラトン主義者」であるという人たちがいる。学者らを「プラトン主義者」と呼ぶ人たちの中には,いわば「反・プラトニズム主義者」がおり,さらに反・プラトン主義者たちの中には,「定理や法則が物質として『実在する』わけではない」ことを根拠に,「定理や法則は人間の作ったものであり『発見』されるのではなく『発明』されるものである」と考える人もいるかもしれない。

  「定理や法則が人間の『発明』である」とみなす「発明される科学」論者の中には,しばしばその動機が,数学や物理,化学といったいわゆる「理系科目」に対する劣等感やルサンチマンである人たちがいるかもしれない。(多くの場合学校教育や受験における)理系科目が増えてであることになんらかの負い目を感じている人たちは,理系科目において優秀でなければならないとは思っているが,望ましい成績が取れない/取れなかったので,「正しさ」や「真理」「絶対性」の象徴である理系科目=(自然)科学を,「人間の作った不確実・不安定なものである」としてその価値を否定することによって,優越感や安心感を得ようと考えるのかもしれない。

 とはいえそういった人々の抱く,理系科目や自然科学に対する不満に,まったく正当性がないとは言えないとも思っている。というのは,学習において「教わったことを教わったままに実行する忠実さ」「言われたことを言われたままに捉える忠実さ」は,自然科学において要求される(あるいは自然科学を構築してきた人々の持つ)「自分で物事を考える」という態度とは異なるからだ。というのも物理や数学といった分野は、確かにある問題への解答を確実に導く方法論を学ばせてくれる。しかししばしば、「どの状況にその方法論を用いるか」の判断基準は、方法論の内部にはなく、使用者の側に委ねられる。また、数学や物理において、規則性を見出すという「発見」「探索」の作業にかんしても、あらゆる場合に適用可能な一般的に 「発見の方法論」というものもない。したがって、判断基準を学んでいない内部人の中には、数学や物理というものが難しく感じるのだ。

 しかしながら「学んでいない」ことを根拠にして自分が何かができないことを正当化することも困難である。最先端の知の現場,知識を消費するのみならず知識を「生産する」現場には,やるべきことを指示する教科書などはない。その現場では「自分で物事を考え」,教科書を自分で書かねばならない。史上初めてそれができるようになった人は、ヒントやキーを他者や経験から得ているとは言え、自力でそれをできるようになったのだ。

 

 「発明される科学」観を持つ人々の主張に対して,「動機が不純である」とか「根拠からの帰結の導出が(演繹的ではないなどの理由で)飛躍している」などの指摘はあり得るが,確かに,(自然)科学における定理や(しばしば数式によって表現される)定理は,物質ではないし,(自然)科学は人間の営為ではあると思う。そこからの帰結の最もらしさは別にして。

 一方で,「発見される科学」観を抱く人々の存在も厳然たる事実である。ただし「発見」という言葉を使う人々が,必ずしも「発見」という単語を吟味したのちに用いているというわけではないとも思う。「慣例的に,新規性のある科学的知識は『発見』されると言うのだ」と思っている可能性もある。ただし吟味して「発見」という単語を使用しているわけでもないにしても,まったく的外れな単語-科学的知識を「殺害する」だとか「投げる」だとか-を使用しているわけではないから,厳密な吟味を経ていないにしても,「発見」という単語の喚起する”本質的”な「イメージ」を曖昧に把握して使用しているのではないだろうかとも思うが。

 もちろん,吟味を経て「発見」という言葉を使用しているらしい記述も,学者がしている。

数学では新しい定理を発明したとはいわないで発見したといいますが,それは新しい定理を発見した多くの数学者が,私と同じように,数学的現象の世界を這い回っているうちにたまたまそこに落ちていた定理を見付けた,と感じるからであろうと思います。(出典不明,Twitterの「数学の歩みbot」@Auf-Jugendtrraum 2017/3/17/22:16)

 

 「新規性のある科学的知識は発見されるのか?発明されるのか?」という二択の問いにいかに回答するか?1つの回答手段は,そもそもそのような問いが発生しないように「新たな科学的知識が(記録上)初めてある個人・集団によって認知されること」を意味する新たな単語を創造・使用することであると思う。一口に「発見」とか「発明」とか言っても,単語の意味というのは多くの具体的な使用例から漠然と抽象されてくるものであり,元来境界線が曖昧なものであり,元来曖昧なものについて「『発見』を使用することは適切か?」を厳密に問うことは難しいと思っている。言語は創造され使用されるうちに意味を獲得するので,新たな科学的知識というより個別な例について,「発見」や「発明」という論争を呼ぶ単語を使用するのではなく,個別特定の状況に適用される新たな単語を創造・使用すればよいのではないか。

 しかし言語をある程度還元的にしておきたい,つまりより少ない語彙でより多くの状況をカバーして言い表したいという要望もあるだろう。あまりに語彙が多い言語は,文章の中に新規の語彙がありすぎて,文章の意味を簡便に伝達するうえで支障をきたすかも知れない。だから,個別の状況を表す新たな単語を創造して使用するよりは,「発見」「発明」のどちらが「比較的」,適切であるかを考えても良さそうだ(量的発想)。

 

 1つの解決策は,知覚の対象である物質だけを実在とみなすのではなく,思惟の対象も実在であるとみなす,プラトニズム(語用は適切か?)であろうと思う。人間の思惟の仕方には,示し合わせたわけでもないのに,ある程度の普遍性があるから、実在とみなそう、という考え方だろうか。

 

 

 

*1:セレンディピティ - Wikipedia

*2:と言っても,意識されるものではなく,むしろいわゆる「無意識」の領分にある,認知的な傾向を指すと思う。