「言葉にする」

「言葉にする」

 

 我々はしばしば,苦しみや悲しみに遭遇したとき,なぜどのように困難に陥ったのか,困難はどのようなものであるか,困難からどのように脱すれば良いかをしばしば考える。そして往往にして「考える」ということには「言葉にする」「言語を用いる」ということが伴う。

  皮肉なことだ。我々はそうして,困難から脱するために「言葉にする」のだけれども,我々が「言葉にする」ことに集中すればするほど,我々は困難に直面することから遠ざかる。そうして「言葉にする」ということは,苦しみそのものとか,苦しみからの真の脱出方法から遠ざかって,逃避の様相を帯びる。

 なぜなら我々が「言葉にする」ことに意識/注意を集中-そしてそれはおそらく体力/エネルギーの集中なのだが-すればするほどに,意識/エネルギーの配分において,言葉を扱うことの比重は,困難に直面することの比重に比して,いや増していくからだ。極度に「言葉にする」ことの比重が大きい人間は,困難に直面するために言葉を扱っているにもかかわらず,その言葉は現実の困難には触れず,現実から遊離してしまう。そうして,現実に対処するために用い始めた言葉が,現実から逃避する世界へと変貌してしまう。

 現実の世界に対処せんと望むのであれば,言葉の世界で自閉してはならない。現実に対処する言葉は,現実の世界で思い感じたことを表現し伝達し保存するに過ぎないのだ。

 

 けれども「言葉を扱うということもまた1つの現実であろう」という反論もあろう。しかし私は上のような極端な表現を取らねば,自己改革などできないのだ。私を蝕むある種の病気に,ショック療法を以って臨む。