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WORDS

-それ以外に抽象しようのない-

自分の世界認識の整理:「私」

自分の世界認識の整理:「私」

 

 以下で記すのは、自分が自分や世界について考えたことを「雑な抽象化」のもとで、なるたけ短くまとめようとした結果。

 

  「私」というものは、脳あるいは脳の一部の、自分自身を感知できない部位に属している。ここでいう「私」とは、客観的物質的に定義され得るものではなく、むしろ悲しみや怒りといった「感じられる」もの、気持ちや感覚といったカテゴリ内にある、主観的なものである。ゆえに「私」というものがどこの部位に存しており、どのような条件下でどのように機能するかということを実験的に確かめるためには、「私」というものが主観的に感ぜられる瞬間に機能する脳の部位や、そこで発生する電気信号・化学物質のやりとり、ほか生理的反応を客観的に確かめればよい。それはすなわち因果性を確認する作業であり、ここで因果とはつまり時間空間的な連続である。

 

 なぜ「私」は自分自身を感知できないにもかかわらず、私は「私」を語り得るか?それはなぜなら、「私」というものは、イメージあるいは言葉に過ぎないからである(仏教的か?)。ところがそういった非物質的イメージも、多くの人々に共有され得るという点では普遍的であり、したがって実在的であると見なしたい。これは物質的な「実在」に並立して,イメージ的な「実在」を置くものである。物質的なものでないイメージの中にもある程度の共有可能性がある以上は,非物質的イメージもある種の「実在」にカテゴライズしてしまうのである。

 ところで「〜はイメージである」という語りもまたイメージであり、これを繰り返せば容易に無限後退する。

 

 自分自身を感知しない「私」は,感知の主体である。「感知」とは,視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感を通じて肉体の外界にある物質的な実在に反応することでもよい。あるいは痛みや疲労,苦しさといった肉体についての感覚を得ることでもよい。悲しみ,喜び,怒りといった感情を得ることでもよい。言葉を学んだり論証したりする際に言葉のイメージを得ることでもよい。感じ,想像すること,イメージを浮かべることの主体が「私」にある。

 ところで電子などの,五感によっては感知できない物体を排除したがる実在論者がいるが,実在論者は五感というものを過信し過ぎているように思うし,なぜ五感を,「正しさ」というものを扱う人間の機能のうちでそれほど特別扱いするのか疑問である。五感を用いている間は五感の確実さに疑問を持たないものだが,しかし五感というものについて考え始めると,それらは不確実なものとなる。

 「正しさ」について考えるとき,「五感」というカテゴライズは,果たして適切なものであるだろうか。五感は,目・耳・鼻・舌・手肌という人間の身体の表面上にあって,外界からの物質的な入力に応答し,「主観的」なイメージ(像)や感覚の出力を与える。そして外界の入力と,感覚器官との環境条件が同一であるかぎり,出力は普遍的に等しく同一である。その限りであって,それらが「正しさ」「確実さ」を人間が扱うに当たって占める役割は重要であれど,「正しさ」「確実さ」が五感のみに存するわけではない。ある種の実在論者が五感の優位を語るときに用いているそれは,五感のみに存しているのだろうか。

 

 さて,内観という作業がある。一般的に内観というのは「ある個人が,自身の感情・気持ち・心理といった”内面的”な状態を,自分自身で観察すること」である。ところが私は「私」というものがそれ自身を感知できないとしたから,実は内観のさいに私が行っているのは,「私」の内部を観察することではなく,「私」の外部を観察することなのである。つまり,主観の世界に存する「私」にとっては,感情・気持ち・心理といった一般に”内面的”なものも,外部に属するものであり,その点においては,人間の肉体の外界にある物質を感覚器官を通じて知覚することはおろか,自分の身体,つまり筋肉を感じることといった感知なども等しい。

 

 以上は畢竟,私という人間のおよそ先天的な気質・性質と,およそ後天的な私の生活環境との相互作用に応じた私の世界認識のやり方にという制約に基づく世界認識のあり方に過ぎない。言葉のうえでやられたこと。