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WORDS

-それ以外に抽象しようのない-

映画「夜は短し歩けよ乙女」

映画「夜は短し歩けよ乙女

 

 森見登美彦原作『夜は短し歩けよ乙女』映画版を観てきた。今日からの公開である。監督は湯浅政彦という人で,湯浅は同作者の『四畳半神話大系』も2010年にアニメ化している。

  原作を読んだことがなかった。浦和駅前のPARCOの6階にあるユナイテッド・シネマで鑑賞*1したあと,その足で5階の紀伊国屋書店に入り,原作を購入した*2。現在第2章の途中である。

 

 「夜は短し歩けよ乙女」の尺は93分と短い。この時間内に,文庫本で320ページの内容を全て盛り込んだ。しかも原作は全4章構成であることが判明した。そのせいか,同じ湯浅監督作品であっても,20分強*全12回の尺があった「四畳半神話体系」に比較すると,「夜は短し歩けよ乙女」の満足度はやや劣る気がした。理由はいくつかある。

 まず第一に映画が駆け足で進んだせいで,登場人物の性格や人物の相関の描写が不十分に思った。これは,テレビドラマ/アニメと映画が対比される際に一般に言えることであり,「夜は短し歩けよ乙女」だけの問題ではない。

 第二に,「四畳半神話大系」の特徴であった主人公の畳み掛けるような「語り(ナレーション)」や自問自答が,「夜は短し歩けよ乙女」では薄かった。その理由は『夜は短し歩けよ乙女』での語り手が「先輩」と「黒髪の乙女」と分散し,かつ映画の尺が不足していたために映画の中に占める1人あたりの語りの時間の割合が,比較して下がったためであると思う。また他に,語り手つまり物語の視点が「先輩」「黒髪の乙女」の2つであるために,独白というスタイルが相性が悪かったのではないか?などと思う。小説と違い,映画における場面/語り手の切り替えは頻繁であるという印象が強い。それはなぜなら,小説は読者が自分の理解度に合わせた速度で読み進めることができるので1つの場面にいくらでも没入できるのに対し,映画は観客の理解度に関わらず,一定の時間(数分程度)で語り手/場面が切り替わってしまうためであると思う。

 以上2点はあくまで,映画版「夜は短し歩けよ乙女」を,原作者の同じ「四畳半神話大系」を監督した湯浅監督の作品であり,前回の湯浅監督と森見のコラボと同じ魅力を今回も発揮しようという方向性で作り手が宣伝し,観客がその宣伝に基づいて今作に期待をした場合の,評価である。したがって,今作を,前作とは全く独立のものとして,今作だけの魅力,今作だけの不満,というものを話すというやり方もあるということは注意しておきたい。

  

 というわけで今作だけの不満について話したい。それは今作が「夜は短しあるけよ乙女」というタイトルに影響されて,原作では異なる日に起こっていた4つの出来事を,一晩の出来事としてまとめたことである。

 全4部構成の原作で描かれる内容は,第1章から順番に「飲み歩き」「古本市場」「学園祭」「風邪」である。原作ではそれぞれ別の日に起こった出来事として記されるが,今作はそれを一晩の出来事として,「黒髪の乙女」の行動という1つの軸で貫いた。

 そのためにいくつかの疑問は生じる。「飲み歩き」には結構時間がかかるので「飲み歩き」を終えた時点で結構な深夜のはずである。「飲み歩き」後に他の3つの出来事を盛り込もうというのは厳しいのではないか?映画の中では「乙女が夜を長くする」という不思議で神秘的なセリフがさりげなく盛り込まれていた。森見原作の作品としてはそれくらいのさりげない説明でもいい気がするが,そういう神秘性は何か違うのでは?

 さらに「学園祭があるにもかかわらずクラブ主催で送別会をやるのか?」とか「風邪の感染から発症まで数時間では足りないのでは?」などいくつか疑問は浮かぶ。

 

 森見作品とその映像化の魅力は2つ感じていて,1つは「京都で生活したくなる」,もう1つは「マジなのか冗談なのかわからない出来事,実現は物理的には可能だけど実際にはいない行動,が,不思議さや神秘を感じさせてくれること」である。サークルや恋愛,飲みという大学生活の日常の延長に,明確な違和感を覚えさせずに,神秘が飛び込んでくる。

 

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4/8追記

 「奇遇ですね」「ご縁」,それから偶然やつながりというものがこの小説を貫く1つの軸。人と人との街中での遭遇や出会い,本との出会い,本と本,作者と作者との関係の連鎖,実はある人のアレが別のある人のアレだった。

*1:人の入りはまずまずに思えた。考慮に入れたいのは主に ①公開日であるということ ②金曜日の昼過ぎであること ③浦和という立地 ④ユナイテッド・シネマでは,カード会員になると金曜日は原則1,000円で鑑賞できること であると思う。

*2:文庫版は604円