部分と全体

全体と部分

 ① (大きさを持つもの)全体をだんだんと分割していく。「だんだん」というのはつまり、最初に全体を、例えば1/2に等分する。次に2個の1/2のそれぞれを1/2に、という具合。n回の操作ののち、全体は1/2のn乗個に分割されている。

 このnを限りなく大きくしていったなら、(全体に比べて)1/2のn乗は、限りなく小さくなっていくだろう。直感的に、nが無限大の極限をとったなら、ゼロに収束するだろう。

  以上のように、大ざっぱにいって「全体をどんどん分割していったとき、全体を構成する要素のそれぞれがゼロになる」(ほんとは分割という操作では要素はゼロにならないから、大ざっぱ、なのだ)というのは直感に反しないけれど、一方で、分割によってできた"ゼロ"を積み重ねると全体が復元される、というのは直感に反するように思う。

 全体の構成要素がゼロに収束するのはあくまで極限操作を取った場合だから、分割のみでは要素はゼロにならない。したがって分割のみが行われた構成要素は、逆算されれば、確かに元々の全体を復元するのだけど。

 でも高校で学習する微積分というもののイメージ、直感的な把握は、「あたかも」極限を取って生じたゼロを積み足してノンゼロを構成するような、(厳密に分析すると?)矛盾したものに思える。

 

② 連想。 ものごとを見聞きしたときに、瞬時にパッと得られたイメージや感覚を維持したまま、得られたものを緻密に説明するのは難しい。

 似たようなことを、絵を描いているときにも思う。リアルな絵を描くときに重要なのは「何が描かれているかが伝わること」だと思う。「何を書いているか分かる絵」にとって重要なのは,全体を描けているかどうかだ。全体というものは,物体やそれを表現した絵の,第一印象を与える。

 ところが絵を描くとき,どうしても細部の微妙な形に注意してしまうことが自分にはある。もしも細部の微妙な形を厳密正確に写し取ることができたなら,その方法で,パズルのピースを端から繋げていくようにして「何が書いてあるかわかる」絵を再現することができるだろう。ところが往往にして,細部から細部へと模写していくと,微妙な狂いが蓄積されて,全体が出来上がる頃にはどこかいびつな像を結んでいる。そして描きたかったものを絵が表現していない,ということがある。パズルを完成させるときだって,何の絵が書いてあるのかわからなくとも,「2つのピースの形が合うかどうか」「2つのピースで模様の色が互いに等しいかどうか」「2つのピースで互いに等しい色の領域の,輪郭線が(滑らかに)連続しているかどうか」を判断材料にすることがあるだろう?

 視覚に限らず,何らかの体験をした時にパッと得られる第一印象のようなものは,「全体を見る」という感覚にどこか似ている。ところがそれを表現しようとして細部に注目し始めると,最初の印象が失われ忘れられていることがある。どうも,表現者・作り手・生産者だけでいると,鑑賞者でいることを忘れているのだ。

 生産者・作り手として「舞台裏」の諸事情に習熟し、生産に注意が移るにつれて、「舞台」の消費者・観衆からの見え方に注力することを忘れがちになってしまうということが時々起こる。

 

③ 物体や,思想や物事の言語などによる記号表現の,大きさ全体に占める割合に比較して,物事の「部分」を定義することはできよう。しかし大きさ全体に対していかにそれが「部分」であろうとも,「部分」というのはあくまで全体に対して言えることである。というのは,部分であっても内部構造を持つとかの理由で分析が可能であることがある。そうやって分析している間は,意識のうえで,「部分」もまた全体であるということがあると思うのだ。

 

④ 「1次元」というものは,実際には様々な向きへと運動の可能な空間を分析してようやく見出される。いわば「1次元があるから3次元がある」とか「1次元が3次元を構成する基本的な要素である」というわけではなく,「3次元があるから1次元が見出される」。しかし初め我々が認識しているのは,分析によって見出された1次元の”和”によって構成された3次元ではなく,もっとごちゃごちゃして色々と混ざり合った何かである。