「理解」について(暫定)

 これから「理解」について記すことは,少なくとも現段階で科学的ではない。あくまで生活の中で自分自身についての内省から得た気づきを言語化したものである。また仮に,「理解」の科学的な理解を試みたいにしても,どの物質あるいはどの身体(主に脳(神経))部位に着目し,それらの振る舞いをいかに定量的に記述するのが適切であるかも自分には分からない。さらには,自分の言葉遣いというのは,どうやら他者と意思疎通を図るには,少しずつ「ずれて」きていたようでもある。

 そういうわけで,以下のことがらを記すのが怖いわけだけれども,それでも自分は以下のことについて書きたいと思う。その理由の1つは「それについて考え,述べるときに自分は幾らかの満足を得るから」というものである。また別の理由は「どうも自分には人生の希望も見えないし,なんとなく先も長くないように思うから,自分の収集した貴石を陳列・保管したい」というものである。それから最後に「これらについて考えることは好きだけれども,一方でこれらについて考えることは『くだらないこと』であるという気持ちもある」という事情もある。後から思い出せるようにこれらについて記録し,保存を可能にしたなら,別のことがらについて考えることが許されると思うのだ。

 

 

 

 

 

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「理解」について

 

 「理解する」という現象を特徴づけるものとして自分が見出しているのは,現時点で以下の4点である。

「理解」の特徴

  • 注意 ー以下では「理解」「着想」「インスピレーション」「発見」「霊感」という5語を同義として扱いたい。
  1. 非意識的な段階と領域の存在 ーあることがらついて,ある人が「理解」したと,その人自身が感じる体験は,ほぼ瞬間的である。この瞬間の以前を「理解前」と呼び,以後を「理解後」と呼びたい。仮に「理解」がある人に起こったとして,「理解前」に,その人の身体は「理解」に向けてなんらかの振る舞いをしているのだが,その振る舞いにおいて,意識的に制御することが不可能な,つまり非意識的な「領域」がある。ここで「領域」には,具体的・抽象的の両方がある。「具体的な領域」とは,人間の身体に占める領域である。「抽象的な領域」とは,「理解」に向かう人間の振る舞いを意識的なものと非意識的なものとに区分ができた場合の,非意識的なものを指す。「理解前」の段階において,非意識的な領域は,理解にあたり,なんらかの重要な役割を果たしている。
  2. 不可逆性あるいは反復不能性・困難性 ーあることがらについて「理解」した人の身体が,「理解前」の状態を再現することは,しばしば困難である。「理解」という現象に限定せず,あらゆる場合においてつねに,人間の身体の微細な部分は変化し続けているため,「理解後」の身体が「理解前」の身体と異なるのは,自明である。ここで扱いたいのは特に,「理解」したことがらに関して使用される身体の部位の振る舞いである。あることがらについて,身体の振る舞いは,そのことがらの「理解後」と「理解前」では異なっており,しかも「理解後」の身体の振る舞いが「理解前」の身体の振る舞いを再現することは困難である。つまり理解は不可逆(つまり反復不能)の一回性を持った現象であったり,反復が困難であったりする。
  3. 自明化 ーあることがらについて「理解」した人にとって,「理解」されたことがらが自明(すなわちほぼ簡明に同義)に思われることがある。仮にその人が,労力や時間をかけて「理解」した,つまり「理解」が困難であったとしても,自明(簡明)に思えることがある。この第3の特徴は,「理解」の身体メカニズムにおいて,特徴2に関連していると思われる。
  4. 証明や検証に"依存せず",かつ証明や検証に先行する確信 ーあることがらについての「理解」が,ある人に起こったとき,「理解」されたことがらについてのその人の確信や納得の度合いは,そのことがらを論証・証明したり,実証・検証したりするのに比べて,強いことがある。また「理解」そのものや,「理解」が伴う納得や確信は,しばしば,証明や検証などに,時間的に先行することがある。

 ただし全ての「理解」に以上4つの特徴が全て当てはまるとは限らない場合もありえ,さらには以上4つの特徴がいずれも当てはまらない場合もあり得る。

 というよりもむしろ、自分の「理解」とは、上記のいずれか1個以上の該当する理解である。 

 

「『理解』の特徴」からの帰結

  • 特徴1からの帰結1 ー「理解前」における非意識的領域の存在ゆえ,あることがらについて「理解」するための完全な,方法論・手続き・計画・マニュアル・規約・計画等を策定することは困難である。(科学は,ある種のマニュアルを与えるけれども,理解の有無は問わない。)
  • 特徴1からの帰結2 ー特徴1からの帰結1に関連して,学習の完全計画化や,科学の完全計画化は,困難である。
  • 特徴2からの帰結1 ーあることがらについて「理解」した人が,それを「理解」するまでの思考過程を,思い出すなどして反芻し,「理解」していない人に説明したり教育したりする(ために記録などする)ことは,しばしば困難である。しばしば話題となる,「説明の下手な天才」とは,この類であろう。
  • 特徴2からの帰結2 ー1度理解したあることがらが分からなくなり,再びそのことがらについての「理解」の起こることがあるが,それはしばしば同じ「理解」ではなく,別種の理解であるという場合がある。そのような「理解」において「理解」されるのは,1度理解したけど分からなくなったことがらではなく,それとは別の,新たなことがらである。本当に同じことを複数回理解するような理解はしばしば,ここで扱いたい「理解」とは異なる。

 

その他

  • 1 ー「理解」に関する「理解」もまた,上記の特徴4点に該当する。つまり「理解」の「理解」もまた,「理解」の一種である。「理解」の「理解」もまた,その他の「理解」と同様の(厳密には等しくはないが,抽象的には等しい)身体の振る舞いをする。
  • 2 ー特徴2と3をわかりやすく伝える「アハ体験」というもの(比喩)である。これは茂木健一郎という人の命名したものである。1度わかってしまうと,もはやわかっていなかった状態には戻れず,また,そうとしか見ることができない。
  • 3 ー特徴4について,「理解」したことがらであっても,特に検証によって,妥当ではないと判明する場合がある。したがって「理解」したことがらが普遍的に妥当であるとは限らない。また「理解」されることがらは,(数学的)論証はもちろん,単位や測定方法の策定などによる検証の困難なものであることがしばしばある。
  • 4 ー特徴4について,このような「理解」の目安となるのは例えば「何通りかの方法で『理解』したことがらを説明できるか」というものである。。「それ」を理解していない人は,「それ」について説明された後で「それ」について説明しようとしても,,説明された通りの言語表現によってしか説明できなかったり,説明された通りの言語表現を部分的に言い換えて説明するのみであったりするが,本当に「それ」を「理解」した人は,複数の方法で「理解」したことがらを説明できることがある。ただし「理解」されたことがらが言語などの記号と対応づけられていない場合もあるので,これはあくまで目安である。また,分野によっては定義に従った語句の用法が推奨されるために,あることがらを言い表すのにたった1通りの表現のみを用い,言い換絵すら極力避ける,という場合もある。
  • 5セレンディピティ

 

 

いくつかの引用

 自分が上記で言いたいことをよくわかってもらうために,以下にいくつか引用する。「自分が考えていることを表現したら,それを見聞きした人にどんな反応をされるであろうか」と不安を感じているときに,自分が考えていることと同様のことを述べていると自分に思わせる先人の発言を見ると安心する。だから以下で引用を行うのは,味方がこれだけいるのだぞと自分自身を安心させるためでもある*1

 自分が引用した発言をした人物たちの中には,現代において権威化している有名な人々もいるけれども,自分がその人たちの言葉を引用する別の理由は「その人たちの権威を借りて自分の発言を正当化しよう」というものではなくて,その人たちの著作が広く流布していて,入手可能だからである。自分はその人たちの発言のごく一部を切り取って引用するけれども,しばしば,切り取られて引用された発言は1つの膨大な文章の網目のごく一部であることがある。そういった膨大な文章においては,自分の引用したごく短い発言の言わんとすることが,何度も異なる表現を取ってあらわされたり,引用箇所に関連してたくさん記述されていたりする。同じことがらであっても,それを納得したり,腑に落ちてそれをわかったりするにあたって,人によってわかりやすい表現が異なっていたり,他のことがらとの関係性の中で1つのことがらが理解されたりする。だから自分の行なったごく短い引用をきっかけにして,引用された発言がもともと属していた膨大な文章全体を通して読むことがあれば,自分の言いたいことがーもしも引用された文章の書き手と言いたいことが同じであったならばであるがーよく理解されるかもしれないと思った。

 

  •  特徴1に関連して① 

本当に見事な思考は数秒の間で行われる。しかしその準備には何時間も必要であり、またその数秒の成果を捉えて活かすにはそれ以上の時間がさらに必要である。ーC.S.パース*2

 「理解」を体感するのは瞬間的に起こるけれども,身体は「理解」へ向けて長い時間をかけて準備していることがある。

本を書こうなどと思わず,勝手にものを考えているとき,私はテーマの周りを跳びはねている。私には自然で,唯一の思考スタイルだ。無理に一本の線にそって考えつづけることは,私には苦痛である。なのに,それをやってみろというのか?! 思想を整理するなんて,まるで意味がないことかもしれないのに,そのために私は,言いようのない徒労を重ねている。ーヴィトゲンシュタイン*3

 「本を書く」とか「言語化する」というのは,「理解」することと等しくはない。それについて書こうとしても書けないということは,身体が,まだそれについて書く準備ができていないということである。

barrynoether.hatenablog.com

 

 

  • 「特徴1」に関連して② 

すなわち思想と人間とは同じようなもので,かってに呼びやったところで来るとは限らず,その到来を辛抱強く待つ他はない。外からの刺激が内からの気分と緊張に出会い,この二つが幸運に恵まれて一致すれば,対象についての思索は自然必然的に動きだす。だがまさにこの特殊な経験は決して世間普通の人々を見舞いはしない。思索がこのように意志とは関係がないということは,我々の個人的問題を考える場合に照らしてさえも明らかに説明される。このような問題において考えてみようという決心は必要であるにしても,いつでも都合のよい時を選んでそれに立ち向かい,徹底的な考察を加え,結論を下すというように簡単に進めないのである。というのも決意だけはしても,我々の思考はしばしばその問題になかなか定着しようとせず,他の問題に走るからで,時にはその当の問題をきらう気持ちまでが思考の放浪に一役買う始末である。それで我々は無理矢理考えようとすべきではなく,自然に気分的にもそうなる機会を待つべきである。ーショウペンハウエル*4

 例えば「私とは何か」などの問題は,文法的に平易で,語彙も頻出のものである。けれどもこの問いに興味を持ち,長い時間をかけて考える人は決して多いとは言えないと思う。「私とは何か」という問いは,言語表現としては誰にとっても平等であるが,しかし,「問いそのもの」を抱く人は,多くはない。

 私見であるが,例えば「私とは何か」という「問いそのもの」は,言語的な問いかけから開始するのではない。「問いそのもの」を抱いている人が,問いを伝達するために,「問いそのもの」対応する言語表現を,後から見つけるのである。「問いそのもの」が先行して生じ,あとから言語表現が対応づけられるのである。「問いそのもの」を,言語表現を通じて得るのは,難しい。自分の場合「問いそのもの」が生じ,あとから,「自分の問いは,このように言語と対応づけられるのか」ということを学習する。

 こういった哲学的問いについて,深く熱中して時間や労力をかけ,それを解消しようとする人々は,その問いに対応するような何らかの困難を抱えていることがある。その人にとっては,その困難を解消しなければ人生が立ち行かないので,深刻な生活上の問題として,そのトラブルを解消しようとするのである*5。そしてその困難があってこそ,その解消策は価値を持つのだが,同様の悩みを抱えていない人にとっては,それについて問い,考えるということは,興味を引かないことであるし,価値も分からない。困難を抱えていた当の本人にとってすら,あの悩みは何だったのか,悩んで手に入れた瞬間に解消策が持っていた価値はどこへいったのか,と思うことがある。

哲学の問題の解決は,メールヘンに登場する贈り物に似ている。それは,魔法の城の中では魔法のように素晴らしいものに思えるのだが,白日のもとで眺めてみると,ありふれた鉄の塊(のようなもの)に過ぎない。ーヴィトゲンシュタイン*6

 困難を差し迫った深刻なものとして抱いていない人が作り出す,哲学的問題への答えは,どこかいびつで,問題を抱いている人に納得や満足をもたらさないことがある。その理由は,差し迫ってその問いそのものを抱いていない人には,答えを提出するのに必要な,いわば内面的な(心理的・気分的等々)観察対象がないからである。ある哲学的問いそのものに対する,有益な解消策は,その問いを真に抱く人によって得られる。

Let us not pretend to doubt in Philosophy what we do not doubt in our hearts.- C.S.Peirce*7

紙に「私は疑う」と書くことを君は疑問と呼ぶのか?-C.S.パース*8

ほとんどの思想は,思索の結果,その思想にたどりついた人にとってのみ価値をもつ。-ショウペンハウエル*9

他人から学んだだけにすぎない真理は,我々に付着しているだけで,義手義足,入歯や蝋の鼻か,あるいはせいぜい他の肉を利用して整形鼻術が作った花のようなものにすぎないが,自分で考えた結果獲得した真理は生きた手足のようなもので,それだけが真に我々のものなのである。ーショウペンハウエル*10

 自力で「理解」していない知識は,あくまで文字や音声として再現が可能なだけの言葉である。なおここで「自力」とは「他者の手を全く借りない」という意味ではない。

 哲学的問いを生ぜしめる要因としては,何らかの,先天的なものと,後天的なもの,そしてそれらの相互作用によるもの,が考えられる。ただし,言語が,「問いそのもの」を抱くにあたって,全く役に立たないなどとは,言わない。 

「<ある人間の>哲学は気質の問題である」と、ときどき言われるが、これには一面の真理がある。ある種の比喩・たとえ話を好むことは、気質の問題であると言えるだろう。そして意見の対立は、見かけよりもはるかに多くの場合,この気質の問題に左右されているのだ。ーヴィトゲンシュタイン*11 

 関連して,次の引用をしておく。

読者は小説を読み、世の風俗や習慣や、乃至は感情や思想に就いて多くを学んだ積りでいるだろうが、ほんとうの処は、自分が世間を理解している以上のものは、何んにも小説から汲みとっていやしないのだ。いい小説は読者が進歩すればする程進歩する。- 小林秀雄*12

  「理解」していることについての言語記号はわかりやすいが,「理解」していないことについて言語から学ぶのは困難である。ただし「言語的体験」というのがあって,それは言語を扱うこと自体が,言語記号の中心であって,「言語的体験」には記号から全く独立した実在の対応物や現象がなく,記号が,言語を扱うことと不可分である。

 

  • 「特徴2」に関連して 

“No man can recall the time when he had not yet begun a theory of the universe.” -C.S.パース*13


“We cannot solve our problems using the same kind of thinking we used when we created them.”- A.Einsteinによるとされる
*14

  • 「特徴3」に関連して

    哲学の問題の解決は,メールヘンに登場する贈り物に似ている。それは,魔法の城の中では魔法のように素晴らしいものに思えるのだが,白日のもとで眺めてみると,ありふれた鉄の塊(のようなもの)に過ぎない。ーヴィトゲンシュタイン*15
  • 「特徴4」に関連して 

    論理的証明などというものはしょせん,前もって別種の認識によってすでに完全に確信の得られたことをいま一度証明するというにすぎないことなのだ。そのかぎりでは,論理的証明とは,他人が殺した敵になお傷を負わせ,敵を仆したのは自分だと自慢する卑怯な兵士に似ているといえよう。 ーショーペンハウアー*16
    このショーペンハウアーの発言は,極端ではある。というのも特に「確信を持たない命題を証明する」ということもあるからだ。しかしながら,

    ほとんどの思想は,思索の結果,その思想にたどりついた人にとってのみ価値をもつ。ーショウペンハウエル*17

    人はふつう,自分自身で見つけた理由によるほうが,他人の精神のなかで生まれた理由によるよりも,いっそうよく納得するものである。パスカル*18  

 あたかも自分自身でそれを思いついたかのようなインスピレーションを与える,思考の誘導術が,ソクラテスの言うところの「産婆術」であろう。

  • 「特徴2からの帰結1」に関連して

    ノートには,ふとした思いつきが委細をつくして記されたりする。事柄が真新しいと,通常,人が陥るところであって,それに親しむに従い,不要なものに気がついて簡明に記しだす。私の場合にも同じことがいえる。かつては論文であったものが,ただ一つの表現で事足りる。 -G.C.リヒテンベルク*19

 さて,例えばリヒテンベルク本人にとっては,「ただ一つの表現で事足りる」かもしれない。しかし彼が知っていることを知らない誰かに対し,彼がその「一つの表現」を用いたとしても,その人は,彼ほどにはそれを知ることはないであろう。たとえば箴言とは,その類である。
 ところが,例えば箴言箴言のままで理解するに至った人にとっては,その箴言はその箴言に他ならないのであって,他の表現によって説明を要するものではない,という事態が生じる。

  • 「その他4」に関連して (追記)

*1:そしてこの安心感こそが,論証や検証がされていない言説を正当化して存続させる動機にもなるのであろうとも思う。

*2:出典検索中

*3:『反哲学的断章』(青土社,丘沢静也訳,1999年)p.89より

*4:『読書について 他二篇』(岩波文庫,斎藤忍随訳,1960年)p.15より

*5:これが,ソクラテスの言う「愛知」に相当する状態であろうと想像する

*6:『反哲学的断章』(青土社,丘沢静也訳,1999年)p.46より

*7: ”Collected Papers” Vol.5, par.265

*8:出典検索中

*9:『読書について 他二篇』(岩波文庫,斎藤忍随訳,1960年)p.21より

*10:『読書について 他二篇』(岩波文庫,斎藤忍随訳,1960年)p.10-11より

*11:『反哲学的断章-文化と価値』(1999年,青土社,丘沢静也訳)p.55より

*12:「小説の問題II」(小林秀雄全作品4『Xへの手紙』p.42より)

*13: “On the Logic of Drawing History from Ancient Documents, Especially from Testimonies”from “The Essential Peirce” Vol.2, p.87

*14:出典不明

*15:『反哲学的断章』(青土社,丘沢静也訳,1999年)p.46より

*16:出典検索中

*17:『読書について 他二篇』(岩波文庫,斎藤忍随訳,1960年)p.より

*18:『パンセ』(中公文庫,前田陽一・由木康訳,1973年)p. 14より

*19:『リヒテンベルク先生の控え帖』(平凡社池内紀訳,1996年)