怪獣だからって緑は無しよ

怪獣だからって緑は無しよ

 

「怪獣だからって緑は無しよ」

 

彼女は,僕の手元にある作品を覗き込むと,そうアドバイスした。

 

「怪獣だからって緑は無しよ」

 

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小学校の1年生か2年生のどちらかの時の話。

 

担任はショートヘアの中年女性で,少ししゃがれた高い声をしていた。

体育の時間以外ではあまりズボンは履かず,花柄ピンクののスカートを履くことがあったろうか。

外へ出るときにはよく,白くてつばの広い帽子を被っていた記憶がある。

クラスの生徒達へ話しかけるとき,時々感極まったように胸の前で手を組むことがあった。

生徒がよいことをすると,彼女は黒板の端っこに花丸を描く。

「グリフィンドールに10点!」に似たようなもの。

花丸がある程度溜まると,「総合」の時間がクラスのお楽しみタイムになり,フルーツバスケットや椅子取りゲームなどをした。

 

***

 

それは些細だが,自分にとっては大きな事件だった。

今でも時々思い出す。

 

ある日の図工の時間のことだった。

その時期,図工の時間では紙粘土を扱っていたと思う。

生徒は各々好きなものを粘土で象る。

乾くと軽くてスカスカの,漂白された紙粘土。

(幼稚園では,重厚で何度でも使える,脂の込められた青カビ色の土粘土だった)

紙粘土が乾いたら,水彩絵の具で色を塗って完成だ。

その日は紙粘土はすでに乾ききっており,色を塗る段階にあった。

 

自分は当時空想上の生き物が好きだった。

特にお気に入りだったのはグリフォン(グリフィン)。

前半身は鷲,後半身がライオンの,いわゆる合成獣である。

 

また同時に,自分の好きな色といえば緑色だった。

何せ通学時に背負っていたのも,緑色のリュックサックだったから。

父親が「ランドセルは高い」かつ「ランドセルは嫌い」ゆえリュックを使わされた)

 

鷲の色って,茶色とか黒とか。

ライオンも小学生の持っている絵の具とか色鉛筆のバリエーションでいえば黄土色。

だがあんまり茶色系統に魅力を感じていない当時の自分は,そういうわけで,紙粘土で作ったグリフォンを緑色に塗り込めたのだった。

 

そういうわけで,担任が自分の緑のグリフォンを見て言った

「怪獣だからって緑はなしよ」

は誤解に満ちた発言だったわけである。

 

結局自分は,緑を塗った上から,茶色に塗り直した。

反論をする言葉や方法を知らなかったし,大人というものへ反抗した結果が怖かったのである。

茶色の,鷲とライオンの元々の色そのままのグリフォンが,スフィンクスのように四肢を投地しつつ,空へ向かって首を伸ばし,声なき叫びをあげていた。

 

彼はもう捨てられてしまったのだっけ?

 

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担任に対し若干の文句があって,要するに2点。

 

1,彼女が自分が何を作ろうとしていたのか確認してくれなかったこと

2,"既成概念に束縛されない自由な発想"という,芸術にかんしてしばしば見られる教育方針について

 

どちらかといえば2のほうが「高尚」。

 

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まず彼女は,自分が作ろうとしているものがなんであるかの詳細を確かめずに,「怪獣」という 漠然としたカテゴリで括った。

しかも「普通はグリフォンが茶色なのに,あえて緑にしている」という自分のやり方は,一般的なものとは異なるものを作れという彼女の方針に合致しているのにもかかわらず,全く逆のことを自分がしていると誤解した挙句,結局彼女の方針と逆のことをやらせてしまった。

 

対して「作品は説明なしに何をやりたいか鑑賞者に分からせなければならない」とか「作品をどう解釈するかは鑑賞者の完全な自由」とかいう反論があり得る。

具体的には「君は自分の作品がグリフォンだと主張するけれど,言語的な説明なしにそれが担任に伝わらなかったのだ」とか「君の作品を怪獣と解釈するのは担任の自由」だとか。

その辺は,今は置いておきましょう。

 

***

 

また,彼女の指導の仕方の背後にあるのは「既成概念に束縛されない自由な発想」を子供に育もうというものであったと思う。

思い返してみると,小学校の図工の時間に,なんら指導らしい指導を受けたことがない。

単に「絵の具で花を書きましょう」と画題を提示されるだけで,「絵が『上手く』なるような指導」というものを受けたことがなかったと思う。

 

 小学校から中学校くらいまでの自分は,絵画や彫刻,音楽といった芸術には全く方法論というものは存在せず,ダヴィンチやミケランジェロピカソといった芸術家は「センス」や「才能」を持った「天才」であったのだと思う。

つまり芸術というのは教育されるものではなく,上手下手が決めるのは完全に先天的な要因だと思っていたのだ。

 

ところが,ある程度絵の「上手さ」は後天的に学習ができるものである,ということに,最近思い至った。

 

中学校には,生徒に人気の美術・技術の教師がいた。

彼の授業では絵画の技法のうち「点描」と「遠近法(透視図法)」を習った。

多少ハマったものの,当時はあまりそういった技術を重要視していなかった。

けれども最近になってようやく,点描や透視図法というものが,絵の「上手さ」に大きく寄与するものであるということに気がついたのだ。

 

ここでいう絵の「上手さ」というものを,もう少し厳密に表現すれば,絵の「リアリティ」である。

つまり「実際には3次元空間にある立体を,2次元の平面にうまく射影して,あたかも本物らしく見せる」ということが,絵のリアリティである。

絵画の素晴らしさにも色々と種類はあると思うが,1つは確実に言語化でき,それは「2次元平面で,どれほど3次元の立体っぽい表現ができるか」ということだと思う。

点描技法は物体の陰影を捉えて立体感を表現するものである。

透視図法は,遠近感を表現し,絵画を人間の実際の視界により近づける。

(他にも空気遠近法などがある)

芸術はセンスだ,感性だ,正しさなどない,という言説もしばしば見受けられるのだが,リアリティを追求する絵画については,どれほど本物っぽく見えるかという観点から評価ができるのではないかと思う。

古代ギリシャやローマの時代にはすでに遠近法などのリアルな絵画表現の手法はあったようだが,(仮に芸術におけるルネッサンスというものが古代の復古を目指したものだとしても)現代の絵画は直接的にはルネッサンスからの流れを汲んでいるようだ)

(工房や職人が技術として絵画制作を担っていたころは宗教的権威による発注が主だったようで,西洋絵画はもっぱら聖書の内容を描くことを一番の目的とすることが多かったようである。レオナルドの出現前には,遠近法の技術はほとんど完成されていたようだ。レオナルドやミケランジェロラファエロが出現する頃から,個人として絵画を製作する芸術家,というイメージが出てくるようにも思う。その頃には貴族などの肖像画もだいぶ増えており,陰影の表現もかなり発展している。少し時代が進むと中心地が経済的に発展したオランダへ移っていき,さらに人物のみならず,静物や風俗・習俗を描く日常生活を描いた作品が増えていく)

 

絵画に限らず,彫刻,小説,映画については,どれほどリアリティを持っているかという観点から評価をすることの適切な作品があると思う。

 

指導要領にどのような記載があるのかはわからないが,少なくとも自分の小学校時代の経験から言えば,教育の現場においては”子供の自由な発想を大事にする”というような考え方が放任主義に転換して,(習得できるかは別として)確実に教えることのできるリアリティの表現の指導をあまりしてくれないのではないかと感じた。

(中学時代の美術の時間は,点描や透視図法がリアリティを表現するものだということをはっきりと自覚させてくれるものではなかった)

 

ただし,リアルであるかどうかというのは,ある種の絵画を評価する観点の,あくまで1つである。

というのも,絵画は,それが描く対象そのものではないのだから。

絵画というものは,物質的には,描かれる対象そのものではなく,キャンバスであり,絵の具である。

であるから人間が目にしているのも,絵画が描いた対象そのものではなく,平たいキャンバスに付着した絵の具の配置である。

絵画はしばしばそのことを考慮に入れる。

また,絵画は,それが描く対象そのものではないがゆえに,もう少し自由なのだ。

例えばレオナルドだって,非常にリアルな絵を描くけれども,理想的な美を追求したのだ。

つまり現実にあるとしたらそのようにあるのだろうけれど,実際には存在するとは限らないものを描く。

だからキュビズムとか,シュールレアリズムとかが出てくる。

 

(やる気が出たら丁寧に書き直す)