書きかけ(絵画について,芸術について)

 

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 2012年,渋谷のBunkamura*1にて,とある展覧会が開催されていました。この展覧会は,Leonardo da Vinciによる素描《ほつれ髪の女》*2を最大の見どころとして宣伝(フィーチャー)していました。そして「レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想展」というのが,展覧会のタイトルでした。この「美の理想」というフレーズを,最近私は頻繁に思い出し,強く意識します。

 

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1.1 (絵画作品の「素晴らしさ」や「良さ」を,作品ごとに個別に論じ評価するのではなく,カテゴライズするとして)絵画作品の「素晴らしさ」「良さ」には複数の種類があると思います。

 

 例えば「美しい」というのは,絵画の「良さ」の種類の1つでしょう。趣味の話になってしまいますが,Vermeerによる有名な《真珠の耳飾りの少女*3に対して「美しい」という形容を用いるということを,私は自分自身に対して許すことができます。Rossetti*4による《プロセルピナ》*5についても同様です。人物画だけでは「美しい」の語義が限定されてしまうと思ったので,風景画としてSegantini*6による《アルプス三部作:自然》*7も挙げます。

 

 しかし私が「この絵画は美しい」と述べたとしても,必ず同意が得られるとは限らないでしょう。例えば,同じくSegantiniによる《悪しき母たち(嬰児殺し)》*8を私は「美しい」と感じます(Vermeer以上に!)が,私以外の誰かが同じ作品を目にして私と同様に「美しい」と形容するかどうかは自信がありません。

 また逆に《二人の姉妹》((File:Pierre-Auguste Renoir - Two Sisters (On the Terrace) - Google Art Project.jpg - Wikimedia Commons)のような)Renoirの作品を「美しい」と形容するであろう人々がいるであろうことを私は想像しますが,私はむしろRenoirの作品の輪郭ぼやけて曖昧であり,色ぬりにもムラがあることに,居心地の悪さを覚えます。かといって,私は彼の作品に対する「美しい」という語の使用の事実に対し不快感を示すことはできても,その存在を否定することはできません。

 このように,同じ物質(作品)を目にしたとしても,それに対して皆が同じ言葉で評価を与えるわけではないということに注意したいと思います。この事実を説明するために私は①全く同じ物質を見たとしても得られる感覚が全く異なるのか,②得られる感覚はほぼ一緒だけれどもそれに対応する言葉が異なるのか,そもそも③個体間での視覚に関わる器官の明らかな差異ゆえに同じ物質を見ていても得られる視界が全く異なるのか(この場合を①と区別しておきたい),といった考え方を用意します。③について極端な具体例を挙げるとすれば,赤と緑の識別が明確でない,いわゆる「色盲」の人です。

 

1.2 あらゆる評価基準をすべての絵画について毎度適用することが妥当だというわけではないでしょう。ある絵Aにはある種類の良さがあるけれど,別の絵Bを,同じ種類の良さがないからといって低評価にすることが妥当というわけではなく,絵Bには絵Bで別種の良さがあることもある,ということです。

 ただしこれは決して「あらゆる絵画に良さが見出せる」ということは含意しません。

 

1.3 複数の評価基準を併せ持つ作品もあるでしょう。しかし絵画の定量的評価,複数の評価基準について重み付けを行い総合点によって絵画のよさを比較することが妥当だとも思いません。

 

1.4 絵画が具体的にどう「よい」「素晴らしい」のかを説明する観点の1つに「リアル」であるというものがあります。

 

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 ルネサンス期の絵画の進歩の一側面は「リアル」な絵の追求であったと理解しています(古代ギリシャ,ローマ時代にもすでにある程度「リアル」な絵があったようですが)。具体的には,遠近法(透視図法)や陰影による濃淡の表現,さらには空気遠近法など。

(技法の発達と並行して,絵画が職人による「技術」から「芸術」(fine art)へと変わっていったとも言われています。さらに工房が集団的に担っていた絵画制作が個人の個性や能力を発揮するものへとも変化したようです)

(さらに宗教的/政治的/経済的権威の演出目的には限定されない制作のあり方も考えられるようになったようです。ここには絵画製作者が「役に立つ」(生命維持に不可欠であるとか,生命維持をする社会的機構に関係する)とは言えない絵画によって生計を立てるほどな経済的豊かさの実現が関係あるかと)

ここでいう「リアル」な絵画とは,2次元平面上に,3次元立体の色相・明度・彩度を射影することです。正確な位置に(正確な明るさで)正確な色を乗せることです。

ただし「リアルな絵」とは言っても,写真のようにして現実の光景をそのまま写し取ったものだけが「リアルな絵」というわけではありません。現実には存在しないものを,あたかも現実に存在したとすればこう見えるであろうというように見せたものも「リアルな絵」であると思います。

ある種の画家は,現実に存在する光景から,物体の色が角度によって明度を変えるさま,距離によって大きさを変えるさま,などの「文法」を学ぶと,さらにその「文法」を存在しない物体について適用し,理想的な美を見せようとします。

そう言った理想を絵にすることが可能となるのは,画材が,描きたい物体や光景そのものではないがゆえです。絵は,描きたいものそのものではないが故に,現実には存在しないものを現実に存在するとしたらこうであろうというふうに見せることが可能です。

絵を見るという体験が,描かれている物体や光景そのものを見るという体験ではなく,あくまで平面上に配置された黒鉛や絵の具の配置を眺める体験であるということを知っている画家の中には,デフォルメであるとか,キュビズムシュールレアリスムの追求をする者が現れるのだと思います。

というような話は,絵画だけではなく,映画,彫刻,文学,演劇くらいまでには当てはまると思うのだけれど,音楽はかなり例外的に思います。音楽は,絵画の例で言えば「現実の模倣」という側面よりも「キャンバスや絵の具といった物質そのものを眺める」という側面の方が極度に強い。

絵画が平面上の絵の具の配置であるとか,映画があくまで撮影された動画の連続であることに気づかず,意識もせずに騙されてしまう普通の鑑賞者がいちばん,芸術に分類されるものの楽しみ方をよく知っている気がする。少し考えてしまう鑑賞者は,それが「本当であるか」を気にして,辻褄を気にする。

作品が,辻褄を合わせることを最重要視したものであるのであればその鑑賞の仕方で楽しめるかもしれないけれど,そうでない楽しみ方を期待して制作された作品については,辻褄合わせ志向でいると,何かを見落とすかもしれない。

 

 

おしまい。

*1:有名なスクランブル交差点側から109に向かって右手(左手は「道玄坂」です)にある「文化村通り」という坂を登ると,東急百貨店があります。東急百貨店に併設される劇場や映画館,展示スペースなどをまとめて「Bunkamura」と呼びます。

*2:File:Leonardo da Vinci - Female head (La Scapigliata) - WGA12716.jpg - Wikimedia Commons

*3:真珠の耳飾りの少女 - Wikipedia

*4:ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ - Wikipedia

*5:プロセルピナ (ロセッティ) - Wikipedia

*6:ジョヴァンニ・セガンティーニ - Wikipedia

*7:File:Giovanni Segantini 001.jpg - Wikimedia Commons

*8:File:The Evil Mothers by Giovanni Segantini.jpg - Wikimedia Commons