『美女と野獣』(2017)

美女と野獣』(2017)を観て思ったことを書いていく。

 

1.ベルと野獣をいかにして親密にするか

 ①書物 ②生育環境

 人間が恐ろしい野獣を愛するに至るまでの過程を、いかにして説得的に描くか。そもそもこの映画の原作であるヴィルヌーヴ夫人*1の童話の内容が「人間が野獣を愛する」というものなのだから、この映画の中でベルが野獣を愛するのも当たり前である。原作だって「重要なのは外見ではなく内面」という教訓が物語に先行している可能性はあるのだから、なおさらベルが野獣を愛するという結末は当たり前のものである。

 といってもそのような結末は、あくまで映画の作り手にとって当たり前であるのに過ぎない。消費者、例えば原作を知らない人間にとっては当たり前か。というわけで、ベルが野獣と初めて知り合ってから愛するに至るまでの過程なりきっかけなりを、多少なりとも説得的に(あるいは映像として連続的に)描く必要がある。

 書物

 そもそもベルは「外見よりも内面!(自由・博愛・平等)」という性格が設定されていそうではあるけれども、作り手は「書物」という接点を、ベルと野獣との間に設ける。ベルは読書家だけれども、村には書物が少ない、だから何度も同じ本を読んでいる。新しい本を渇望しているのだ。そういうわけで、ベルにとって野獣の城の図書室は、まさに知識の海。彼女はその広く深い海を気ままに泳ぐ魚である。

 ただし彼女に本を提供するとか、彼女の読書を許容するだけでは、彼女の気を引くには不十分である。彼女の村の牧師だって本を貸してくれるし、ガストンもまた表面上はベルの読書を許容するだろう。しかし牧師やガストンと野獣との差は、書物の内容に踏み込んでまで会話をしてくれるという点にある。たとえそれが彼女の好きな『ロミオとジュリエット』を野獣が嫌いであってもだ。野獣は実際に読んだうえで、書物に評価を下す。これがベルにとっては重要なのではないか。そしてこの映画の「我々の目を曇らせる偏見の霞を取り払う」という趣旨に照らしても。

 

②生育環境

 また、ベルと野獣の境遇は似ている。2人は共に幼少期に母を失い、父親に育てられた。野獣は城に束縛され、ベルは狭い村に束縛されている。野獣は自分の外見が恐れられ人々が寄り付かないという偏見に、ベルはその知的好奇心や知識欲、束縛を嫌う気持ちの強さに対する「女性はこうあるべき」という伝統的価値観(偏見)の抑圧によって、それぞれ行動を制限されている。だからベルは「こういうカテゴリに帰属するものは、こうあるべきだ」という、現前する判例を許さない、一般化された法則、いや信念によって苦しめられる、孤独な人間(や野獣)に対す同情や共感を抱きやすいのではないか。

 

 

2.徹底して、美徳をマイノリティに帰属させる

 「人間は見た目ではなく、内面だ」というのは、この実写化映画の元になった1992年版『美女と野獣』の時点ですでに発信されていたメッセージである。けれども実写化にさいしてそのメッセージはさらに徹底したものとなった。実写版では、真理や勇気、優しさといった美徳は、徹底してマイノリティの人間が備えるものとなっている。

 先述の通り「女性はこうあるべき」という伝統的価値観から外れるベルは、知的欲求があり、束縛を嫌う(「読書好き」というのはすでに1992年版で設定されていた性格ではある)。彼女に親身な牧師は黒人だ。野獣は、自分が人間の姿を取り戻すためという目的がありながらも、体を張って彼女を救う。ラスト、野獣と彼の下僕たちの呪いが解けることによって取り戻されるのは、異人種間の恋愛である。

 またベルの父親が城から戻ったさい、彼の証言を裏付ける証人が貧しい女アガット1人であった。しかしガストンらは、貧しい身分ゆえに彼女の発言には信憑性がないと退け、村人たちもそれに同調する。

 

 ガストンという人間は、美男で筋骨たくましく、世間的な受けはいいが、実は狡猾で、人々を扇動する。つまり「外面はよく内面は醜い」という、本作における美徳の対極に位置する人間である。年齢や性別、階級の異なる幅広い層を対象として製作される作品において典型的に見られる「誰から見てもワルモノ」というような悪役とは異なる、少し複雑なキャラクタである。

 そして「外面は美しいが中身は醜い」という彼を好み、彼に先導され、真実を知らぬまま城を襲撃する人々こそ「多数派」の象徴である。

 

 

3.境界線上のル・フゥ

 ここまで見てきたのは、この物語において美徳を備えた少数派と、表面的な美徳を好み本当の美徳とは何かを知らない多数派との対比的な構図である。この構図において、ル・フゥという人間は、表面的には多数派を装っている。そしてガストンを盛り立てる腰巾着である。けれども彼は内面を偽っている。強く主張したりはしないが、彼の内面にはガストンの行いに納得いかない気持ちがあるし、女性が恋愛対象ではないのではないかという気持ちもある。ル・フゥは表面的には多数派に所属しているけれども、その内面には美徳を隠した少数派なのである。

 その彼が、城の襲撃の場面で多数派とは反対の側につき、また自分の内面に一致した相手と円舞するのは、彼が自らの内面を隠すことをやめ、多数派から、美徳を備える少数派の側を選んだということである。ル・フゥが幸せな結末を迎えるのは、それゆえである。

 

4.あなたはあなたの視点でいたままでも「内面重視」でいられるか

 この映画をみて「外面で物事を判断していはいけない」という信念を抱いた人間は、この映画があくまで神の視点から描かれたものだということに注意してほしい。だからこそ、ベルや野獣に対する観客の共感を引く。

 現実の世界には、冒頭にあったような「野獣はこういう経緯で姿を変えられました」という解説はないし、野獣の元の姿が凛々しいとは限らない。野獣が王子だとも限らない。ベルの生活に密着することもないし、知性あるベルが美しいとも限らない。

 もし野獣が貧しく、醜男だったら?ベルが醜女だったら?あるいは野獣の過去の解説がなく、ベルの暮らしのことも知らなかったら?それはつまりまさに現実の生活である。この現実の生活の中で、あなたは、金持ちでも、美しくもなく、よく経歴を知りもしない人間の内面を重視することはできるか?

 この映画は「外面よりも内面を重視しよう」という模範的感想を観客から引き出すけれども、ベルの美しさだとか、野獣が金持ちで美しいということが、あるいはこの映画の迎える結末についての予備知識あるいは先入観を持って見るからこそ、ベルや野獣の内面を尊重しようという方向へと観客を誘導するし、また彼らに味方するからこそ、ル・フゥらも幸せになるのである。そういった誘導のないこの現実の世界で、人は内面重視でいられるだろうか?

 

 物語とは理想的なものであり、実際には世界は単純ではないことを、作り手は知っている。それゆえにエンドロールでは「物語が永遠であるためには、その愛を持ち続けて」と歌うのかもしれない。

 物語が現実世界と異なるのは当然である。実現されていない世界であるからこそ、物語にする。現実の世界では体得しづらい思想であるからこそ、物語によって誘導する。

*1:ベルの住む村の名前はここから取られたのか