『複製された男』とドゥニ・ヴィルヌーヴ

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私がこの文章を打っているこの瞬間の日付は12月14日である。

あなたは今夜寝る直前にベッドに入りながら、スマホを手にし、友人とLINEしていたとしよう。すでに日付が変わりかけている時間帯に、あなたは友人に次のようにメッセージを送ったとする。

「明日、丸の内のイルミネーション観に行かへん?」

「素朴」な感覚では、例えこのメッセージを送ったのが12月15日の00:38だとしても、ここでいう「明日」とは12月16日のことではなく、12月15日のことである。寝る直前のあなたは、まだ12月14日の延長線上に生きているので、例え時刻はすでに24:38になっていたとしても、12月15日を「明日」と呼ぶのだ。そのことを分かっている友人であれば、特に質問が返ってくることなく、YESかNOかの返事が来るだろう。

あるいはこうも言えるかもしれない。「素朴」には、「今日」や「明日」といった単語は、12月14日とか15日と言った日付と厳密に対応づけられて使用されているのではない。「素朴」な状態にある人々は、「私が今存在しているこの瞬間の日付はm月n日であるから、n日を『今日』とするとき、『明日』という単語は(n+1)日のことを指す」というように、日付を経由した厳密な定義にしたがって「今日」や「明日」という単語を使用しているのではない。「素朴」には、「今日」や「明日」という単語の使用は、「年」や「月」「日」と言った(一昔前は)地球の公転や自転を用いた幾何学的な定義に従うものではなく、人間の生活や活動のサイクルへの接続が強いものではないかと思う。

タイプ①「素朴」な「今日」「明日」・・・生活や活動のサイクルとより強く関連?

タイプ②厳密な「今日」「明日」・・・使用者が発話する瞬間の日付にしたがう

タイプ①のような使用こそ、「文脈から意味がわかる」ということである。もしもタイプ②のような語用をした場合、①の熱心な支持者からは、「アスぺ」というような非難がされることであろう。しかしタイプ②も決して誤りではないし、初めタイプ①のような語用をしていた人間が、タイプ②の語用に移行するケースも考えられる(私のことだが)。

ただし重要なのは12月15日に丸の内にイルミネーションを観に行くことができるかどうかで、その目的にとってはタイプ①と②の違いについての争いは副次的なものである。そのことをよくわかっている人は、

「明日(今日)丸の内のイルミネーション観に行かへん?」

と、タイプ①と②どちらの支持者にも意味が伝わるような発話をするだろう。

(どうも今日のことをあえて「12月14日」のようにあえて日付で述べることを人は避けるらしい。おそらく、しばらく前か後の日付に思えるからではないだろうか)

あるいは、そもそもこんな誤解が生じるのは直前の深夜(あるいは前日(当日))に誘うからである。なので12月14日の明るい時間帯に

「明日丸の内のイルミネーション観に行かへん?」

と誘うとか、12月11日(月)に

「今週の金曜日、丸の内のイルミネーション観に行かへん?」

と誘うとかすればよいのである。

 

『複製された男』

 

youtu.be

ここまで見てきたのは、つまりこういうことである。同じ言葉であっても、文字通りの(厳密に定義された)意味を正しいとした場合、これまで「文脈を共有していれば伝わってきた」意味が不正確なものとなってしまう。

言語コミュニケーションにおけるこの事情を、映画表現において用いたのが、ヴィルヌーヴの『複製された男』であると思う(彼のこの作品が初めてであるとかそういうことは言わない)。『複製された男』では「曖昧だが用を成す言語」の映画(映像)バージョンが、ストーリーを理解する(謎を解く)うえで鍵となる場面で用いられていると私は思う。

 たとえばこうだ。物語冒頭、主人公の日常生活が描かれる。彼は大学で講義し、夜はマンションの一室で恋人と会う。そして翌日また大学へとバスで通う。この

A「日中は大学」

B「夜は逢瀬」
C「朝(?)は通勤」

の3場面は連続して映し出され、さらに1セットで周期的に繰り返される。しかし重要なのは、ABCのスキマの彼の生活である。つまり、このようにABCの1セットが繰り返されるからといって、これが彼の「単調で変化のない毎日」を意味するとはかぎらない。彼がABC以外の時間に何をしているかということは触れられていないのだ。

普通であれば、ABCの1セットを周期的に繰り返すのは「単調な生活」を簡潔に(省略的に)演出する手法である。何せ映画というのはリアルタイム配信ではないし、ドキュメンタリーでもないのだ。2時間程度の時間的制約がある映画が提供するのは、現実世界で起こる出来事を現実世界そのままに垂れ流すことではなく、凝縮させられ切り詰められたたエッセンスである。であるから、1人の人間の24時間や1週間を丸ごと全て垂れ流すわけにはいかない。かといってセリフで語らせるのも工夫がない。だからこのように24時間のうち一部だけをピックアップし、繰り返すことで単調さを演出するのである。そして普通であれば、この「単調な生活」の演出の後で、ひょんなことから彼の生活は大転換を迎えるのだろう。『複製された男』の場合は、自分に瓜二つの男を見つけるというのがそれに当たる。ところが瓜二つな男と出会った後の展開は、盛り上がりに欠けるというか、「だからなんなの?」という感じがある。瓜二つな男と出会い、入れ替わり、スワッピングし、片方は事故る。だからなんなの?それで終わり?そう思うから、もう1度見直して、ストーリーを洗い直すのである。

すると次のようなことに気がつく。『複製された男』の場合は、この「単調な生活」の演出には、観客のミスリードを誘う意図がある。「単調な生活」の演出はされたけれど、すでに述べた通り、ABC以外の時間に彼が何をしているかということは分からないのである。

これはあたかも、序で説明した「明日丸の内行かへん?」と深夜24:38にLINEするかのようである。「単調な生活」がタイプ①、しかし「ABCのスキマに何をしているかは分からない」というのがタイプ②に相当するわけだ。

あるいは次の場面はどうだろうか。アンソニーの妻は、アダムの勤務する大学へ行き、アンソニーと瓜二つ(しかしこれは観客の視点からの表現である!)なアダムと出会う。そしてアダムが去ったあと、アンソニーに電話をかけると、アンソニーが電話に出る。この場面を注意深く見ると、アンソニーが電話に出るのは、アダムが壁の裏(カメラの死角)に入った直後である。であるから、アダムとアンソニーが同一人物だとすれば、電話に出たのは死角に隠れた直後のアダムであるという可能性は否定できないのだ。しかし普通であればこの場面は、容姿も声もアンソニーと全く同じアダムと出会った妻が、アンソニーに電話することで、アダムとアンソニーが別の人物であることを確認したのだと観客に思わせる演出である。ヴィルヌーヴはそれを逆手に取ったわけだ。これもまたLINEの例で言うと「アダムとアンソニーが別々の人物である」という解釈がタイプ①に、「アダムとアンソニーが同一人物であり得る」というのがタイプ②に相当する。

ヴィルヌーヴは『複製された男』の中で「アダムとアンソニーが別々の人物である」と「アダムとアンソニーが同一人物である」という全く逆の仮説を両立する、どちらとも取れる演出を重ねたわけである。「別々の人物だと思っていた2人が、実は同一人物だった」というのはヴィルヌーヴ監督が『灼熱の魂』で見せた得意技である*1

*1:プリズナーズ』では容疑者が無実であったどころか、むしろ被害者だった。『ブレードランナー2049』では......